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「(ボス、帰ってきたの?)」

ベルはジャンプをして、ドアノブを両足で開けました。ザンザスはベッドで横向きで眠っているようです。返事のない彼に焦り、ベルはまたジャンプをしてはベッドの上に乗りました。

「(ボス、寝てるの?)」

ベルの気配に気付いているようですが、それよりも眠いらしくベルの言葉に反応しません。いつもだったらベルもこんなことはしません。寝ている最中の彼を起こせば烈火の如く怒られてしまうからです。幾度なく眠りを妨げたスクアーロを見てきたので、睡眠中のザンザスを起こすのは愚かだとわかっているのです。それでも、声を掛けずにはいられませんでした。気付いてもらえるように、何度もザンザスの枕を往復します。枕が何度沈んでいく感覚は不快で、ザンザスはゆっくりと赤い瞳を覗かせました。


「なんだ・・・」

眠りを妨げられたのか苛立った声ではありましたが、ザンザスは自身の周りをうろうろするベルの頭に大きな手を置きました。なまえとは違った少し力強い撫で方です。ベルは突然の事だったので驚いて目を瞑りましたが、ザンザスは何度もベルの頭を撫でます。まるでベルの心が波立っているのを知っていて、その気持ちを鎮めるような手つきです。夢のせいで気持ちが乱れる事は滅多にありませんが、夢の内容がベルにとっては悪かったのでしょう。二度と思い出したくない日々で、思い出せば苛々とする日の事でした。でも、ザンザスは確かに目の前にいます。

「(・・・ボスおかえり・・・)」

「寝ろ」

ザンザスはどこにも行ってないんだ、とベルは安心してザンザスの言う通りにベッドの端っこで眠る事にしました。幼いころに見たザンザスを思い出すような、優しくて静かなベイビーブルーの夜です。窓から男一人と猫一匹を覗く月は檸檬色のヴェールを纏っており、魔女にかけられて呪いを憐れみつつも、幸福そうなベルに月光をせめてもと浴びせました。彼が魔女にティアラを奪われるまでの時間はそう長くないのですから。


ザンザスもそれをわかっていました。早く事を進めなければベルはこの世からいなくなってしまいます。彼が猫になった日から数えて、時間はありません。なまえとも十分仲良くなりましたがどうにも、あと一歩が踏み出せません。一歩を踏み出して、この関係が崩れて言ったらどうしようかと不安なのです。おかしい、こんな風に悩むなんて、とザンザスは恐れを感じている自分に嫌気がさしました。

「(ねー、ボス、ごめんってばー)」

ベルは今ザンザスに許してもらおうと足元をうろついています。昨日、ザンザスの服の上でお昼寝していたことがばれて怒られたばかりなのです。上手く隠したつもりだったのですが、しっかりと毛だらけの洋服が見つかってしまいました。特に反省してなさそうなベルの声に苛立ちを感じながらも、ザンザスは椅子に腰かけては何度もスマートフォンの画面のロックを開けたり閉じたりを繰り返します。

なまえに連絡するかどうか迷っているのです。

また連絡する、と言ったものの、どう連絡すれば良いかわからないのでしょう。一度終わった連絡を再開させるのがザンザスは大の苦手でした。そもそもテキストメッセージすらやり取りするのが苦手なのですが。時間はありません。のんびりとなまえの様子を伺っている暇すらないのです。それを急かすかのように、ルームサービスで頼んだアイスコーヒーの氷はどんどん溶けていき、コーヒーの色は薄くなっていきます。

「(ボス、)」

「なんだ」

にゃあん、と猫の鳴き声が響きました。ザンザスの眉間の皺が深く刻まれ、開かれた筈のテキストアプリの画面は真っ暗になりました。

「ベル?」

ベルはなに?と答えたつもりですが、ザンザスには何と言ったかわかりません。ベルを見つめる赤い瞳が濁り始めました。魔女の爪の音が聞こえる気がしました。長い爪はショッキングピンクで縁どられていました。その爪で、ベルのティアラを奪おうとしているのです。

『赤い瞳を持つお前、この少年を猫のまま死なせたくなかったらお前が想う女と結ばれてみろ!お前は恐れている、心を明かすのを恐れている悲しい男だ。お前と違って優しい私だ、一月以内に女から口づけをうけろ。さもなくばこの少年は私と同じように灰となる。あの世までティアラを持ってこい、馬鹿者』

魔女の死に際に込められた憎しみたっぷりの捨て台詞が蘇り、ベルはなんだか暗い気持ちになりました。

まさか、ザンザスと言葉を交わせなくなってしまうなんて。