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もし、なまえの手を握ることが出来たらどんなに良い事でしょう。なまえも密かにそれを期待していました。邸宅内で美術品を見ている時、時折二人の指はぶつかり合ったりしていたのです。ザンザスの大きく、しっかりと骨ばった手に触れるたびになまえはどきどきとしました。自分から手を繋ぐ勇気はありませんが、何度その勇気が出せれば良いのかと思いましたし、ザンザスから手を握ってくれれば良いのにと思わずにはいられませんでした。
でも、そんな淡くて甘い出来事を祈る気持ちはなくなってしまいます。何せ横目で見たザンザスの表情が強張っているように見えたからです。
一体何が彼にそうさせているかわかりません。でも、なまえは一緒に邸宅美術館を歩いた時ように小さく笑って欲しいと思いました。
「・・・ごはん、美味しいと良いわね」
「どうだろうな」
食事のおいしさがせめてもの救いになるでしょうか。思わずそっけない返しをしてしまった事をザンザスは後悔しました。もう少し優しく返せれば良かった、と思うもなまえとの間には夏の嫌に湿った雨雲が産んだような沈黙が出来てしまいました。いつもだったらこんな風に気にしないのに、なまえ相手だとついつい、気にしてしまいます。そんな沈黙は消える事もなく、遂にホテルの目の前のバス停についてしまいました。
お別れの挨拶を、とザンザスが顔を上げた時です。なまえの手が彼の心臓近くのボタンに触れました。
「てんとう虫」
細い指で掬いあげたてんとう虫は爪の上に乗り、何事かと少し驚いている様です。
ザンザスは訝し気にてんとう虫を見つめては、なまえの方へ視線を移します。その様子がなんだか、ベルに似ている気がして思わず笑ってしまいました。彼女の家にやってきて、白い蝶を追いかけ始める前のベルにそっくりだったのです。
「幸運のお知らせね。良い事がありますように」
そう言ってなまえは笑いながら手を少し上に動かせば、てんとう虫はどこかへ飛んでいきました。
「今日はありがとう、またね」
「また連絡する」
少し表情の柔らかくなったザンザスになまえは胸をなでおろしました。バスが動くまで彼は待ってくれるようです。ああ、頬に口づけでも出来たら良いのに、となまえは意気地なしの自分を恨めしく思いました。ザンザスもまた、なまえの手を引いてもう少し一緒に、と言えば良かったな、と後悔していました。勿論特段トラブルなどもなく、勤勉なバス運転手のおかげでバスはホテル前を出発し、二人のデートは幕を閉じたのです。
食事の前に戻ってきたザンザスのおかげで、一人もとい一匹だけの夕食を済ませたベルはうなされていました。
『ボス、いつになったら帰ってくるの?』
まだ幼い、小さな少年の頃の夢です。どんなに屋敷の中を歩いても、何度ザンザスの部屋に行っても、何度彼の部屋の扉を叩いてもザンザスは出てきません。少しだけ髪の毛の伸びたスクアーロはベルの質問に答えてくれません。眉をひそめて、沈黙が流れるばかりです。辺りは薄暗く、ヴァリアー邸で最も大きな時計は今も音を立てている筈なのに時が止まったように感じられます。
『もう帰ってこないの?』
何も言わないスクアーロに腹が立ち、ベルはザンザスの部屋へと飛び込みました。ボス!と呼んでも、浴室の扉を開けても、ベッドのクッション全てを落としてもザンザスは出てきません。
『スクアーロ!何で何も言わないんだよ!!』
ザンザスの部屋の外で立ち尽くすスクアーロの表情はよく見えませんが、異様な苛立ちをベルはスクアーロにぶつけました。走って、スクアーロに殴りかかってても敵いません。両手を押えられて、床に転がされてしまいます。転がった瞬間にぶつけた膝がじんじんと痛みますが、ベルは悔しい気持ちになりました。スクアーロに負けて悔しいのか、それともザンザスを自分から奪った者に対する悔しさなのか。
「(ボス?)」
体を震わせてベルは目覚めました。膝は痛くありませんが、ザンザスが眠っているであろう部屋の扉が閉まっていました。もし、いなかったらどうしよう、とベルは不安に駆られました。