永遠のバター・ミルフィーユ
「なまえ?」
「疲れた、もうやだ」
そう言うや否やなまえは泣き出してしまった。可愛いホテルが良い、と言った彼女のために選んでくれたホテルの部屋が今や洪水である。正確に言えば、なまえが見えるている限りは洪水でもディーノの視界には洪水など見えない。当たり前である。彼女の瞳にはたっぷりと涙で覆われており、何度瞬きをしても涙が途絶えないのだ。
「嫌な事でもあったのか?」
少し離れて座って居た彼女に腕を伸ばして自身の方へと抱き寄せ、自身の腕の中になまえを閉じ込めた。涙のせいでディーノの眉毛が困ったように下がっているのはわからなかっただろう。寧ろ、こうして抱き締められたせいでなまえはもっと涙腺が緩んで、ついに声をあげて泣き始めてしまったのだ。
泣き出した理由はわからなかったが、ディーノはなんとなく、やっぱり、と思った。
なまえのクマがいつもより濃い事、髪の毛がなんだかパサついている事。そして表情はどうにも疲れが抜けていないように見えていた事を。飛行機を乗ってやってきて、更にはイタリア国内を列車で移動した。移動続きの日だったから疲れているだけだ、とは思えなかった。でも、自分の気にし過ぎかもしれない、と久しぶりに会えたなまえとのデートを楽しむことにしたが、やっぱり、彼の気付いた違和感は気のせいではなかったのだ。
「仕事、疲れたの」
しばらくディーノの腕の中で泣き続けていたなまえが、ゆっくりと言葉を呟く。子供をあやすように背中を摩っていた手を動かすのをやめて、ディーノは仕事?と聞きかえすもそれ以上なまえは何も言わない。確かに、彼女の仕事は忙しそうだった。特段メッセージでは仕事に対する不満などは聞いていなかったが、彼には伝えてないだけで何か嫌なことがあったのだろう。
「上司に理不尽な事でもされたのか?」
「ううん」
「同僚と上手くいかない?」
「うーん、ううん」
「本当に?」
鼻を啜るなまえにディーノはティッシュを差し出す。少しばかり鼻をかんだあとにすかさず、水は?と聞けばなまえは首を縦に振った。ペットボトルのキャップを開けて、飲みやすいようにコップに移してみたが、いくばくか零してしまったのは言うまでもない。流れ出した水分を得るように水を飲めば、言わずともディーノはおかわりをいれてくれた。とろり、とホットミルクに入れる様な蜂蜜色の瞳がなまえを見つめる。話すつもりもなかったのに、気付けば仕事での嫌な事を全て話してしまった。
時折り涙で声をにじませながらも、言葉を詰まらせても彼は気にせず彼女の話を聞き続けた。ゆっくりでいい、と言いながら何度も背中を摩ったり。なまえだけしか知り得ない気持ちを少しでもわかろうとディーノは耳を傾けてくれたのだ。
先ほどまでどこか乾燥していたような部屋が潤っている気がした。とっぷりと、水の中に沈んで、渇きを潤したようにつやつやとしているように彼女には見えた。
「アイシャドウ、落ちちゃったな」
「だめ、見ないで」
「落ちても可愛いぜ」
「ふざけないで」
先ほどまで可愛く腕の中で泣いて、自身を頼ってくれた儚げななまえは一瞬にして消えてしまった。こうして言い返せるだけ元気が出たと思えばいいだろう、でもなんだかディーノは寂しい気もした。恥ずかしがる彼女を逃しまい、と強く腕の中に引き込みながらポケットに入れたままだったタオルハンカチで目じりに落ちてしまったアイシャドウを拭う。
腕の中にいるのに変わりはないが、いつの間にか彼の膝の上に乗せられているのに気づいたのはこの時だ。
「そんなに自分がいけないって思っちゃだめだ。頑張ってるのはなまえ自身なんだからな」
「・・・ありがとう」
どういたしまして、のつもりなのだろうか。小さな星の糸で紡いだ様な、金髪の髪の毛を少しだけ揺らしてディーノは両眉を上へと上げてお道化て見せる。思わず笑みをこぼせば、涙の跡が残る頬に口づけがおくられた。なまえもお返しに、と彼の頬に口づけをしてみれば、ぎゅっと抱き締められる。涙で力が抜けて、どこか体温の下がった体がじわじわとあったかくなっていく気がした。