歯を磨きながら、ベッドルームに灯されている蝋燭のように暖かいランプをきらは見ていた。眠る前に尖った神経を丸くするような灯りだ。忘れていたはずなのに瞳に残像がこびりついていたせいだろう、涙をこぼし終えた彼女はまたザンザスのことを思い出してしまった。掌で燃え上がる炎はまるで彼の怒りそのものを表していて、一瞬で全てを焼け尽くす炎だ。きっとあの男達からしたら恐ろしくてたまらない炎だっただろう。

『俺が何か間違った事を言ったか?』

炎、炎。

あの炎よりもきらにとってはザンザスから向けられた態度の方のが恐ろしかったし、ひどく悲しかった。その時の彼を思い出す度に競り上がってくるのは、恐怖よりも強い悲しみなのだ。それがまたしても涙へと姿を変えて、きらの表面へと出てしまう。歯を磨いたままで泣いてしまえば上手く呼吸が出来ない。歯磨きもそこそこに彼女は慌てて口をゆすぎ、自らの手で口元をぬぐった。拭うや否や堪え切れない程の大粒の涙がこぼれ、溢れ返る悲しみに引っ張られるように洗面所の前で屈んで、1人きらは泣いた。決してひとりぼっちではないのに、誰もいない暗い静かな湖の中で1人泣いている気持ちだ。
触れることもできない満月に慰められている気がしたが、酷い孤独感に襲われ彼女の涙は大きくなるばかりだった。


湖は暗くて何も見えない。
見えるのはただ湖面にうつるのは真ん丸の、齧れば白桃の味がする満月だけだ。しっとりと濡れてしまった頬や彼女の頬を満月は拭えない。乾くことのない涙に彼女は苦しむだろうか。
でも、きらが湖に投げ飛ばされ、しばらく沈んでしまった冬の入りの時とは違ってまだ温かいだろう。湖の中にいたかもしれない何か恐ろしくて大きなものもきっと彼女に同情するだろう。

逃げるようにして宿泊を決めたホテルのスイートルームの一室でザンザスがぼんやりと、そんな風にきらのことを考えながら進まない酒を手に持っていた、だなんて誰が思うだろうか。
彼女が悲しんでいることはわかっていたし、何かメッセージを一言でも彼女に送れば良いのもわかっていた。けれどもどうにも彼にはそれが出来ない。どう考えても、何度思考をこらしても、悲しみ泣く彼女に狼狽する自分しか想像出来なかった。

部屋には何の荷物もない。傘すらなければ、ザンザスが持っているのは財布、携帯、車の鍵のみである。誰にも見つからない、誰にも干渉されない場所が欲しかった。それに適当に服は買えば良いと思っていた。でも外に出るのは面倒だ、と携帯を開き電話帳でSの列まで指を滑らせたが、時間を置いて画面は真っ暗になってしまう。
目頭を押さえ、少し何か思案したが結局シャワーを浴びることにした。

「風邪ひいたの?」

「センパイがひくわけなくね?」

「どういうことだぁ!」

スクアーロの豪快なくしゃみに少し時間が止まったが、その時を動かしたのはベルの軽口だ。
悲しい夜を抜けて、まだ悲しみの余韻が残るも明るい朝だった。朝露に濡れた草花はすっきりとした顔をしており、夏の女神の胸飾りも立派に輝いてる。

「お前はさっさと任務に行け!」

べー、と血の巡りの良さそうな舌をベルが出して去ったあとの談話室は嘘のように静まり返った。きらは談話室に持ち込んだトーストをたらたらと食べては温くなったカフェオレが入ったカップに触れるばかりで、落ち着きがなさそうである。

「ボスさんから連絡はあったか?」

「ない」

「そうかぁ」

結局きらが眠れたのはたった数時間であった。泣き終わった頃にいつに間にか雨は止んでいたし空は僅かに白んでいたのだ。ルッスーリアの賑やかな声につられて思わず床を抜け出したが、任務にまたしてもいってしまうとのことで健闘を願うハグをして今に至る。

『こんなに想ってくれる子がいるのに、ボスったらいけない人ね』

やっと見せてくれた夏の女神の胸飾りに相応しい言葉だった。ルッスーリアの言葉はいつだってきらを励ましてくれて、消えないろうそくを灯してくれるのだ。

「怖かっただろ」

スクアーロの断定するような、伺うような言葉にきらはぼんやりと彼を見つめながら頷く。

「・・・でも、このままザンザスさんが戻ってこなかったらどうしようって思う。その方が私は怖い」


カフェオレはすっかり冷めてしまった。少し酸味のある豆はやはり苦手だ、と思いながら飲む。喉の狭い隙間を通っていくような感じがするのは喉がまたひりひりし始めているからかもしれない。いいや、きっとそうだ。現にスクアーロの真っすぐな銀髪が波を打っている。
わずかに意思の疎通がほつれただけで転がり落ちるようにしてきらとザンザスは離れ離れになってしまった。部屋から飛び出す前、きらに言葉をかけられ冷静を取り戻したザンザスは決して彼女を見ようとはしなかった。期待をしていなかったと言えば嘘になるだろう。きっと、彼は自分の涙を拭って何か言葉をかけてくれるときらは思っていた。だからこそ、こちらを見ずに部屋を飛び出してしまった事を思い出すと涙を堪えずにはいられないのだ。


「ザンザスさん、何を見てたんだろう」

雷に連れられるようにしてどこかへ行ってしまった婚約者を思う彼女の涙はきっと、彼にとってはどんな物よりもあたたかくて優しいのに、彼はまだ気付けない。


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