吹きこぼれそうだった何かが燃えている。体の底から、彼の心臓の奥底から溢れ出ている。
ザンザスの苛立ちが炎になったのかしら、ときらは夢を見ているような気持ちになったがそうではないのをわかっている。
突然の襲撃に彼女は、あくまでも勢い的な話なのだが、ザンザスに首根っこを掴まれるようにして壁際に投げ飛ばされ、おかげで彼女が攻撃を受けないように最善の場所にいられた。更にスクアーロはずっときらを守るように目の前に立っている。彼女を守りながらも、剣士であるが立派なスナイパーだと言われても問題ない腕前を粗暴な男どもに披露した。
「随分とボケた人間がいるらしいな」
明るい色のスーツを着た男達が十数人、ずっとこのラウンジで息を潜めていたのだ。ザンザスとスクアーロの首を頂こうと。
「まだやる気かぁ!?」
白昼に始まった銃撃戦に客たちは散り散り逃げていく。平日の昼下がりである事が幸いし、ラウンジに残っているのはマフィアの人間だけだ。万が一でも一般人を巻き込めば面倒なことになる、それを避けれただけでも十分なのにザンザスは異様に苛立っていた。
「うわ、お前!それはやめろ!!!」
スクアーロが大声でザンザスへ制止をかける。かけるも、彼には届かなかった。
そんな彼の掌には燃え上がらんばかりの炎が灯されており、焦る部下の言葉などどうでも良い、否、気にかけていないのだ。
「カスが」
大きな炎へと姿を変えてからはあっという間だ。
吹き荒れんばかりの炎にきらは思わず目を瞑った。ほんの少しした後、炎の明かりが消えた事を薄い瞼ごしに知りそっと手を下ろす。
何もない。
彼女が首を長くして待っていたフローズンミルクはとっくに溶けてしまったし、わくわくしながら座っていた椅子も、壁紙も、カーテンも、窓もどれもが灰色へと姿に変えていた。
当然である。男達のみならずラウンジは業火に焼かれ、一瞬にして灰へと姿を変えてしまったのだから。
まるで元から存在しなかったように彼らの身元を辿るのは難しいだろう。誰も彼らの行方を追うことはない。仲間の惨劇を目撃してしまった唯一の生き残りはスクアーロに銃で足を撃たれた男だけである。恐怖に顔を歪ませ泣いたところでもう取り返しはつかない。
「用が済んだら殺せ」
ザンザスの言葉にきらは胸がひやりとした。まだ上手く慣れないイタリア語ではあるが確かに殺せ、と言ったと脳内で反芻する。
とっくに彼の中から何か吹きこぼれたのに、どうして彼が未だに恐ろしく苛立っているのかきらにはわからなかった。
襲撃が彼を苛立たせたのか、他の何かが苛立たせているのか。帰り道の車の中に漂っていた空気は重くいやに湿っていた。
それは空模様も同じで、色濃い雨雲がヴァリアー邸の方へと集まっている。何かに怒れるザンザスを探し求めているようで、雨雲はずっときら達乗る車の後を追いかけていた。屋敷に着けば、真上にひときわ分厚い雲が腰を下ろした。どっしりとした雲が腰を下ろした拍子に雷の子供と何かが落とされた。
「あの男は本当に旧友なのか」
「え?」
廊下から聞こえたザンザスの声にきらは耳をうたがった。炎の明るさが残像となり、それが瞳にはりついたまま彼を見るのは難しく何度か瞬きをする。
「また何処の馬の骨かわからない男と話してる訳じゃないだろうな」
きらの眉間の皺が深くなった。
「どうしてそんなこと言うの?」
瞳に張り付いた残像を拭うように強く瞬きをしている間にザンザスは獅子が歩むが如くきらに近づいていった。眉間の皺が深くなったのは彼もそうだ。
「質問に答えろ」
「質問に答える前に決めつけてるのに?」
「俺が何か間違った事を言ったか?」
落とされた雷の子供が遠くから声を投げては窓を叩こうとしている。
2人を包み込む空気は黒に近い青色に染まりあがり、灰色の重い雨雲と混ざり不穏なマーブル模様が辺りが包んだが、その不穏さに気がついたのは小さなマーモンだけだ。このままではきらがザンザスに押さえ込まれてしまうのでは、と危惧していた。
しかし、小さな体では自身の上司を満足に抑え込む事も出来ないので、誰もいない屋敷の中でただきらの無事の祈るばかりである。
「そんなこと言って、」
「あ゛ぁ?!!」
だが、マーモンの祈りは効果を為さず低く唸るようなザンザスの声が響き渡った。
蠢いていた不穏な空気は固まり、不安げな夏空を映しこんだ大理石へと姿を変えて、遠くにあった雷の子供の声は次第に低く大きな雷鳴となった。
彼らの周りにあるもの全てがザンザスの意のままに動かせるかのようで、きらは誰も味方のいない場所に放り投げられた気持ちになる。
「質問に答えれねぇのか」
口論、と呼ぶには生温い。
凄まれた事のないきらは驚き何も言えなくなってしまった。体はかたまり、喉は焼けてしまいそうだ。一方でザンザスが堪えるのに苦しい苛立ちを彼女にぶつけようと、ダマスク柄の壁にきらを乱暴に押し付ける。またしても出会った時と同じように胸ぐらを掴んで。
「ザンザスさん、」
きらは火の付いてしまったザンザスの怒りをどう静めれば良いかわからなかった。
彼がここまで激昂するのは出会った頃以来だ。
恐怖から腰を抜かして床に座り込んでしまいそうだが、彼に胸ぐらを掴まれているせいで叶わない。瞳の底から這い上がってくるのは涙だけで、溢しまいと堪えながらザンザスの怒りに燃える瞳を見つめる。彼の奥底で眠る怒りが、憎しみが奥底から燃え上がり今にもきらを飲み込んでしまいそうなのだ。その瞳を通して見えるのは彼の愛する彼女の筈なのに、そんな彼女が今にも泣き崩れてしまいそうなのに、ザンザスは気づけない。
「ザンザスさん」
瞬きを殆どせずきらを見つめる様はまるで獲物を目の前にした肉食動物だ。
視線はあっているが彼女にはわからなかった。ザンザスは確かに視線を合わせている。けれども見つめているのは確かに自分なのだろうか、ときらは疑問だった。
「ザンザスさん、本当に、私に怒ってるの?」
消え行きそうな、涙を堪える声が鳴り響く雷の合間に聞こえた。
そこらへんに浮いている星など一瞬で燃やしてしまう程の熱量を持ち、彼の奥底から溢れた怒りのせいで燃え上がっていた星雲が、ゆっくりと動きを緩めていく。ゆっくりと、厚く重い炎が静かになる。
「・・・違うでしょ、きっと」
胸ぐらを掴んでいた手が緩くなった。鉛が海に沈んでいくように彼の手が鈍く下へと降りて行った。
掴まれていた部分は皺だらけで、きらはザンザスから漏れ出していた怒気と張り詰めていた緊張から解放された事で堪えていた涙が頬を伝う。大きくなった雷が沈黙に紛れ込み、2人を切り放そうとし、ザンザスは何もせずに紛れ込んだ雷の後を追うようにして部屋を出て行ってしまった。
一体、どこを、何を彼は見ているのだろう。
ああ、わからない。わからない。
「・・・きら」
部屋を恐る恐る訪れたマーモンが見たのは泣き崩れた上司の婚約者である。
その場に泣き崩れたきらはまるで、足を失った人魚のようだった。彼女には救いにくる姉妹もいなければ魚たちもいない。愛する男を思っていたのに、追いかける事も出来ない。ただただ1人、陸に残された哀れな人魚だった。
「きら、」
顔を床につけまいと手で体を支えながら、顔を伏せたまま彼女はしゃくりをあげて泣いている。マーモンはなんと声をかけてやれば良いのかわらず、そっと、彼女の肩に小さな手を置いて気持ちが落ち着くのを待つことにした。