きらは夢でも見ているのかと思った。
ザンザスに誘われ、乗り継ぎを経てたどり着いたのはギリシャはミコノス島である。
僅かばかりの観光を楽しんで、ホテルで昼食後を取った後は海に行く筈だったがソファーで眠りこけてしまいすっかり陽はくれた。かくして、ギリシャの初日は少しの移動、少しの観光と半分のお昼寝で終わりそうだ。
しかし、ザンザスは1人で部屋についているテラスのプールで夜を楽しんでいたらしい。プールチェアの側に置かれた洋書に、ウィスキーグラス。最初、昼寝から目覚めたばかりの彼女には黒い獅子が泳いでいるのかと、心臓が冷えたが。

「入るか」

彼女の視線に気が付いたザンザスは濡れた黒髪を後ろへと掻き分けながらきらに声をかける。黒く青い筈の空が月のせいで菫色に照らされ、正方形のプールサイドに置かれたキャンドルがゆらり、と揺れて戸惑う婚約者をプールの方へと誘った。

「深くない?」

「掴まってればいいだろ」

言うや否やザンザスはプールから上がって濡れた手のままきらのワンピースに手を掛けた。彼女が海に入るかもしれない、と水着を下に着ていたのを知っていたのだ。何かを心配するように恥ずかしがっている彼女の答えをザンザスは待っていられなかった。
体のラインが出ないゆるやかなワンピースのおかげで脱がすのは簡単で、きらは抵抗をする間も無くプールへと引きずり込まれてしまったのである。

強引、と言おうとしたきらだったがやっと目が覚めたのか彼女は暫く閉口してエーゲ海を眺めた。というのも、ザンザスの肌をまだ見た事がなかったからだ。鍛え上げられた体は鋼のようで、彼の肌に残る傷跡がやけに彼を雄々しく見せていた。波打つ音が2人を包む。きらはどうかこのまま、ザンザスに対して感じている緊張を隠して欲しいと異国の海に願いながら肩までプールに浸かった。

「きら」

だが、どうも漆黒に染まった海は彼女にだけ意地悪のようだ。
名前を呼ばれて振り返ればザンザスの腕が腰に回され、顔を向き合わせるようにと姿勢を変えられる。きらが逃げ出さないようにとザンザスは自ら彼女の手を自身の逞しい首に巻きつけた。こうして彼女はこの場から離れてはならない、と杭を打たれてしまった。

「やけにおとなしいな」

そうさせているのは紛れでもない自分なのに。
プールの端に閉じ込められたきらは何もしゃべらない。ザンザスは彼女の骨盤あたりに手を置きながらも、彼女の体の線、体の柔らかさを確かめるようにして太ももからくびれへと手を滑らせては口づけをした。

「・・・泳いでないよ」

「泳ぐ場所じゃねぇだろ」

肌の質感を確かめるような視線がきらの体に落とされる。くびれの下に置かれた手に力が入り、ザンザスの腰とぴったりくっついてしまった。
菫色の空と混ざった月の灯りが肌を艶めかしく照らし、ザンザスはそれに引き寄せられるようにして彼女の肌に唇を寄せる。

「あっ、まって」

水と風のせいで少し冷えた肌にはあまりにも熱い。
鎖骨を食むような口づけに思わずきらは甘い声を漏らしてしまう。彼女の肌を滑るのはザンザスの唇だ。首筋に口づけをされたかと思えば、肌を舐められたり、きつく吸われたり。肌は冷えたが、なんだか寒くないのだ。口づけをしてくる男の体温が高いからだろうか。それとも、ザンザスの口づけのせいで自分の体が暑くなっているのだろうか。きらにはどちらが正解なのかわからない。

「んっ、ふっ、ふあっ」

ザンザスはこのまま彼女が溶けてしまえば良い、と思っていた。無意識のうちにナバイアが視線でなぞったであろう肌を、その視線の跡を焼き消すように彼は唇を寄せている。
何も知らない唇を舌で割って滑り込んで、息苦しくなって欲しいと。そして、助けを求めるように自身に縋りつくように、この肌に手を滑らせて欲しくてたまらないのだ。現にきらはザンザスの深い口づけに応えるのに精一杯で、首に回した手はきつく握りしめられている。口を開けなれば良かった、と思ったがそれは出来なかった。何度も熱っぽく下唇を啄まれて、音をたてられて。一体誰がこの肌を濡らした男の口づけを拒めようか。

「ああっ、ザンザスさんっ」

きらの胸が押しつぶされる。ザンザスがぎゅっと、彼女を抱き寄せたからだ。
抱き寄せて、胸元に顔を埋めては唇を寄せて離さない。濡れた彼の前髪が彼女の胸元にかかり、思わずきらは下の腹に力が入ってしまった。

「きゃっ、あっいたっ」

ザンザスの濡れた髪がきらによって握られる。痛みが心臓のあたりを走ったが彼は依然、そのあたりから唇を離さない。焼き印を押されてしまいそうな程に熱く、何だか眩暈を起してしまいそうだった。
弓なりになったせいできらの髪の毛はプールに浸かり、海の音と水の音が耳に入る。濡れた音だ。捕食者であろう彼の肌が、唇が熱いのは体温のせいではないのを理解した。このまま心臓を、自分の全てが食べられてしまうのではないか、ときらは恐ろしくなる。情炎だ。情炎の炎がザンザスの体の中で渦巻いており、堪え切れない程に彼の中で燃えているのだ。

「きら」

「んっ!」

きっとプールの中に沈み込んでも彼の情炎の炎は消えやしない。
弓なりになった体が正され、再びきらの可愛らしい唇に獅子の唇が寄せられた。きらの上唇を舐めとるような、そんな口づけだ。口づけをしているだけなのに、彼が自身の肌に唇を寄せているだけなのに、きらは何だか彼と行為をしている様な気持ちになった。なんて淫らな事をしているのだろう。プールの水が肌に触れる音、濡れた肌。ザンザスから移された情炎の炎が彼女の肌を溶かしていくのだ。

このまま炎に飲み込まれるのは恐ろしい。
それでも、この炎に飲まれて縋りつくなら彼が良い、と思いながらきらはザンザスの首に腕を回して、もっと深い口づけを促した。

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