たっぷりと樽の中で熟成されたウィスキーの色、薄暗くも琥珀色がかった照明が2人を包み込んだ。

ザンザスはワークトップに乗せたきらの太ももの横に手をつき、左足に体重を乗せたまま立っている。見つめられている彼女は涙のせいでまだぼやけている視界のまま、彼女の事を困らせるのが好きな人を改めて見つめた。彼の瞳が潤んで見えるのは紛れもなく彼女のせいだ。

「・・・眠れなかったの?」

獰猛な獅子は乙女の質問に手短に答えた。

「仕事のせいだ」

「明日からはお休みですか?」

「ああ」

「じゃあ、ゆっくり眠れますね」

仕事のせいもあるだろうけど、きっと嘘だ、と彼女は見抜いているが何も言わない。
代わりにきらの指がそっと黙り込みをしている彼の隈を辿った。目頭のから目尻の方まで、彼を感じ取る様にゆっくりと辿ったのである。そして、そのまま指を横に滑らせて、きらはザンザスの頬の傷跡に触れた。

「・・・痛かったですか?」

口を開いたはずのザンザスはまた口を閉ざしてしまったし、彼女と目を合わせることもしない。しばしの沈黙を経て、聞いてはいけなかったのかも、と少し彼の頬から手を離した時だった。ザンザスがきらの手に自身の手を重ねてきたのだ。重ねられた手の力は強くあたたかい。けれども、ザンザスの眉間にあった皺が少しばかり深くなっていた。彼は何か苦しい気持ちを堪えるように何も話さない。

「ザンザスさん」

パウダーブルーの沈黙が、優しく揺れている。きらの優しげな声のせいだ。
固まって動かなかったザンザスの眼差しは彼女の様子を伺うように緩やかに上へとあがった。彼の額と自身の額をきらはぴったりとくっつける。暫くそのままで、互いに想い人の肌の感覚と温度を感じた。
黙ってお互いを見つめあうだけの時間だけが流れ、心臓の音は勿論、睫毛の瞬きの音さえ聞こえてしまいそうな程に周囲は静かだ。
額から伝わる体温で肌が1つになる頃、ザンザスは眠りに落ちてしまいそうな穏やかな瞬きをした。

「いっぱい歩いてきたんですね」

こんな風に穏やかに瞼を下ろすのが憚られる夜もあっただろうか、ときらは考えた。
彼の心に巣食うものはあまりにも深く、きっと長く彼を苦しめているのかもしれない、と。彼女にはそれが何かはわからない。聞いても良いのかもしれないが、彼は唇を固く閉ざしたままだ。ならば、少しでも彼のそれが小さく浅くなればいいのに、と祈るような口づけを額に落とした。

「そうだろうな」

雲の掴むような言い方をした婚約者にきらはそれ以上何も聞くことはせず、左手を彼の首に回す事にした。
彼が今、目を瞑って振り返って見る過去はどんなものだろうか。振り返るにはあまりも遠く、あまりにも焼け焦げていて恐ろしく冷たい道だろうか。それとも思い出すにはまだ、激しく炎を上げていて目を凝らさないと駄目なのかもしれない。そのせいで自分の歩んだ道が見えないのか、彼が敢えて見ようとしていないのかは不明であるが。

「雪の中で迷っても大丈夫だったから、海の底に落ちても、火に飲まれても大丈夫だから、」

喉が熱い。
さっき乾いたばかりの涙がまたきらの眼に膜を張ろうとしている。
だから、そんなに苦しそうな顔をしないで、と言う前に彼女は涙に言葉を詰まらせてしまう。ザンザスを絶対的に信頼するような言い方でありながらも、どこか願いを込めるような言い方だった。彼の瞼の裏がライラックに染まり、穏やかに暖かく眠れる夜が多く訪れてほしい、と泣いているのだ。
ザンザスははらはらと泣き出してしまったきらを腕の中に抱え込み背中を摩る。

「ザンザスさんが、どこかに行っちゃっても私はそばにいるから、私を見失わないで」

きらの願いはあの冬の日から何ら変わっていない。
自分では彼の心に巣食うものを取り除く事は出来ないし、彼の心に巣食うものを癒やす事は出来ない気がしていた。けれども別に力になれない事を悔しいとは思わなかった。力にはなれない、自分では不足である。だから、せめて、代わりに彼の側で少しでいいから祈らせてほしいのだ。ザンザスの中で蠢く消え切らない怒りの炎を、その怒りの渦が少しでも小さくなるようにと。その炎で瞼を燃やし自分自身を焼け焦がしてしまわないように、その煙のせいで彼の麗しい赤い恒星を閉じ込めた様な瞳が濁ってしまわないように。


「・・・お前もどこにも行くな」

「行かない、絶対に行かないもん」

ザンザスはきらのくびれに腕を回し、しっかりと抱き締める。彼女の存在を、彼女の生きている心地を確かめるように。きらもまた、ザンザスの首に回した腕にしっかりと力を込めて彼を抱き締めた。

「きら」

名を呼ばれ、濡れた瞳でザンザスを見る。ザンザスは彼女からの何かを待っているのか、名前を呼んだきりじっと黙ったままだ。それでもきらは彼が何を求めているかは聞かずともわかった。首を少し右にかしげる。瞳と瞳の中心で目が合って、2人はどちらともなく口づけを交わしたのだ。
初めて口づけをした訳でもないのに、おずおずと互いの唇を確かめる口づけである。
それはまるで、摘みたてで、まだ頬に紅がかかっていない白桃を思わせた。

だが、白桃の柔らかな頬に紅が差し込まれるのは遠い話ではない。今はまだ、不器用な獅子がまた一度誤って鋭い爪を立てないようにしているのだ。
そうして獅子はやっと穏やかに眠り、優しい夏の夜を乙女と過ごしたのであった。

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