暴発してしまったヴァリアー邸に対してきらは懸命にその瞬間の記憶を抑え込もうとしていた。

ザンザスの燃えるような瞳、怒りで激しく燃えた瞳を。きらは襟元を掴まれた時は心臓が止まったかと思ったが、世界がひっくり返る様に獅子の爪研ぎで破裂した沈黙は音を立てずに静かに辺りを燃やし始めたのだ。心臓が止まっていたらどんなに良かったことか。辺りはザンザスの怒りで燃え上がり、彼女を敷き伏せた彼の力はあまりにも強く固くて、無機物で押さえつけるような口づけも、彼の彼女の太ももをなぞった瞬間は大きな蛇が忍び寄るようで、全てが激しく燃えていた。忘れることもないであろう一瞬一瞬なのに、きらはその時の感じた気持ちを思い出しまいと懸命に抑え込んでいるのだ。

大きく見開かれたきらの瞳は震えている。当てがわれたのとは異なる、見覚えのない色をした壁をうつしているがそんなのはどうでも良かった。懸命に、その瞬間の感じた事を思い出しまいと霜を記憶の中で張り巡らせた。細かい一本一本、実際に見えた色も、世界も、手に触れたものまで全てだ。全てを永遠に隠そうと唇を硬く閉じて。

「怖かったでしょう」

きらが唇を硬く閉じて、見なかった物にしようとしているのにルッスーリアは気づいていた。大きく見開かれたきらの瞳の底は暗く見えないが大きく揺れている。
気絶している彼女を助けたのは他ではないルッスーリアだった。薄明かりの中、彼は目覚めたばかりの彼女のそばに腰掛け足を組んでいる。サングラスで瞳を見ることは叶わないが、自身の感情をすくい取ろうとしている事にきらは気づいた。

「・・・わからない」

「押さえ込もうとしてるんだもの。今にも破裂してしまいそうなのに。そりゃあわからないわ」

気付かれないように、と思ったのにきらの声は震えてしまう。

「ボスに抵抗したんですってね。なんて強い子なのかしら」

ルッスーリアは頑ななきらに語りかける。枕元で揺れているのはアロマキャンドルだろうか、きらの瞳の底に届くにはまだ弱い灯だがジャスミンの香りは僅かに2人を包み込んでいた。
彼女はルッスーリアに言われて、そういえば思いがけず殴ってしまった事を思い出す。

「堪えるばかりでは壊れてしまうわ。いいのよ、その時の気持ちをなぞったって。辛い思いをしたのに押し込むなんて、どうしてそんな辛い事を自分に強いるの?」

きらの記憶を覆い尽くそうとしていた霜が小さくひび割れていく。霜の端から、音を立てずに白い線が走って行き、薄氷が今にも割れてしまいそうだ。もらい慣れていない言葉のせいで今まで閉じ込めていたものがあっという間に崩れて行きそうである。

「傷ついた自分を傷ついてないように装うのは良くないわ」

目を見開いて記憶を抑えつける事はもう出来ない。
白い刻印が静かに深く深く沈んでいき、霜と呼べなくなったそれを堪えるには記憶に張り付いた薄氷はあまりにも脆い。きらの記憶を押さえつけていた薄氷はたちまち割れていった。
雪解けと呼ぶにはあまりにも悲しい涙だった。

「怖かったわね」

じわじわときらの視界が揺れ始める。
キャンドルの蝋よりも重く緩やかに、涙が枕へと溢れて行ききらは顔を大きく歪ませ、薄明かりに照らされながら重い涙がこぼれ落ちていくばかりだ。

「辛かったわね、よく堪えたわ」

ルッスーリアはぼたぼたと泣き始めた健気な婚約者の背中を摩ってやる。強張った背中をほぐすように何度も何度も摩ればきらの涙腺は一層緩み、止めどなく涙が溢れた。

「いやだったの、ずっと。怖かったの。全部、押さえてたの」

こんなにも泣いているのは今回の件だけではない。彼女が抑え付けてきた多くの記憶の薄氷がしとしとと溶けているから、ここまで泣いているのだ。思い出したくもなかった、忘れようと記憶の底に、薄氷の底にしまいこんでいた記憶が溢れてくるのだ。きらの言葉に何かがある子だと気付いたが、特に触れずにただただ彼は彼女を抱き寄せ、寄り添った。
言葉を何かかけて励ますよりも今はきらに自身で押さえつけていた気持ちを吐き出して欲しかったからだ。押さえつけて、己に我慢を強いて破裂しそうな彼女が本当に破裂してしまう前に。彼女の睫毛がこれ以上涙で縁取られないといいのに、と願うばかりである。

「・・・ごめんなさい、洋服が」

「あら、気にしないで。そっちの部屋のベッドを使ってちょうだい。眠れないなら映画でも観る?」

アロマキャンドルがいくばく下へすり減った頃、きらの涙は止まった。
あんな事件のあった部屋だ。過ごすのは嫌だろう、という気遣いと万が一の為にとルッスーリアはきらを自身の部屋に避難させていたのである。あらゆることを流し切る様に泣き終えたきらはすっきりとしていた。部屋の主の彼には涙の深い理由はわからないが、目覚めた時よりも晴れやかなきらの顔を見てチョコレートでも出そうかと考えている。

「あら!そっちはお手洗いじゃないわ!」

「えっ・・・!」

うっかり開けてしまった扉の先、ちらりと見えたのはよく人間に似たものだった。
眠っている人間がどうしてここに、ときらは不安に胸がうごめく。ハロウィンを控えた魔女のせいだろうか。だとしたらあまりにも意地悪ではないか。きらは恐る恐る扉を閉め、ルッスーリアの方へと顔を向けた。

「死体愛好家なの」

うふふ、と言って微笑むルッスーリアはなんだか嬉しそうで魔女に意地悪をされたばかりのきらはここは暗殺部隊だもんね、と妙に納得してしまう。

「わかった・・・。でも、映画は明るいのがいい・・」

「素敵ね!お酒は飲める?美味しいチョコレートがあるの。さっきらちゃん、こっちにいらっしゃい」

きっと歪つで、きっとおかしい。

それでもきらとルッスーリアの友情は確かにこの日から育まれ、強固な関係となったのである。

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