わからないけれども、悲しい夢だった。夢の中ではなくて、実際に泣いているのにきらは気付いていたがどうにも目覚めれなかった。自分の泣いている声しか聞こえない。顔を動かしているからだろうか、ズキズキと額の傷が痛んだ。

「きら」
 
 聞き慣れた声で名前を呼ばれる。それだけじゃない。誰かが、彼女の髪を撫でているのだ。波立ったきらの心を鎮めるように、ゆっくりと何度も何度も撫でてくれるのだ。
 
「きら」
 
 ぎゅう、と手を握られた時だった。栓を抜かれたように水が一気に抜け出して、意識が明るくなったのだ。悲しい夢の中で溺れてしまったからか、きらはようやく息継ぎが出来る気がした。
 
「・・・ザンザスさん?」
 
 扉をしっかりと閉めていなかったのだろう。隙間から音楽が聴こえる。彼女の呼びかけに彼は片眉を上げて、少しだけ口の端を曲げてみせた。きらは空いた方の手で目を擦る。
 
「どうして、ここに?」
 
 当然の疑問である。彼は彼女の部屋には一度も訪れた事がなかったからだ。あの時の事件を除いては。それに、彼は彼女に添い寝をするような形で側にいる。出来る事なら、抜け出したいくらいには恥ずかしいときらは思った。

「別に」
 
  それで納得するだろうか。かといって、きらはじゃあ何、と尋ねたかったがそれも出来ない。捉われてしまったウサギの様に、彼女は動けなくなってしまったのだ。彼の赤い瞳がしっかりと彼女に向けられている。雲一つない瞳は赤く、宝石のように麗しい。お妃様の左手に相応しい、威厳ある赤い宝石を思わせた。でも、ザンザスの瞳はどんな魔女でも魔法使いでも、宝石にする事は出来ないだろう。涙を流す赤子を爛々と、照らすように優しい星ではない。どんな静寂でも、夜闇でも煌々と輝き続ける赤い瞳なのだ。
 そんな瞳に見つめられて、それだけではない、きらの握った手を彼は指の腹でさするのだ。次第に心臓の音が大きくなり、廊下から聴こえる音楽を遮っていく。別の意味で死んでしまいそうだ、と彼女は思った。
 
「・・・悪い事をした」
 
 心臓の音も、静寂を破ったのはザンザスの意外な言葉だった。きらはゆっくりと瞬きをして、彼の瞳を再度見つめ直した。
 
「あの時、お前を一人にすべきじゃなかった」
 
 責任を感じているのだろうか。ほんの僅かにザンザスの瞳に曇りが見えた。ずっと眠っていて、人とまとも会話していなかった彼女には難しいシチュエーションである。あんなに横暴で、自分の非を認めなくて、気分屋な彼が謝ってくるとは夢にも思わなかったのだ。
 
「私があの時、暴走、感情的にならなければ、こんな事に」
 
 彼女の言葉に静止をするかのように、ザンザスは強く彼女の手を握った。彼自身の始末の甘さがこの状況を招いたのだ。その女と彼は、所謂一時的な仲で、決して真剣な物ではなかった。少なくともザンザスにとっては。けれども、女は真剣に彼に恋をしたおり、彼女からしてみれば、ドブに捨てられたようなものであった。そこに後継者争いで座を奪われたヴェントファミリーの長男、その弟である青年が女を利用して復讐しようと企てたのだった。女がいようが、きらがいようが、彼はいずれにせよ復讐するつもりであったと報告は上がっていた。
 
「自分のせいだと思うな」

 もう少し、柔らかな言葉を掛けれれば良かったのに。でもザンザスにはわからなかった。心臓の底に芽生えた蕾を潰さないように、きらの手にもう片方の手を重ねた。彼女の手はすっかり、彼の大きな手に包まれてしまった。彼女にも聞きたい事や言いたい事はある。でも、今は彼の優しさに甘えようと思い、口を結んだ。そして、互いの視線を混じり合えないまま、沈黙を共有している。初めて彼が彼女の部屋に来たときは大違いだ。
 
「ザンザスさん」
 
 彼の手に、自身の手を重ねる。勿論、彼の手は大きすぎて覆う事は出来ない。
 
「私も、酷い事言ったのに」

「もういい、忘れろ」
 
 どうかしている、とザンザスは思った。あんなにも憎くてたまらなかったのに。激しく燃え上がるような感情はどこにもない。自分の中に芽生えた蕾を、その怒りで焦がさないように精一杯だった。
 

「お前が生きてて良かった」
 
 ザンザスは彼女の手を、自身の口元に引き寄せて口づけをした。本当はきらの唇に口を寄せたいところだが、なんとなく、まだ早い気がした。
 
「ザンザスさん、助けてくれてありがとう」
 
 彼女の手が、彼の手から抜け出す。そして彼よりも細い腕が、あの日と同じように首に回された。抱擁はあまり得意では無かったが、陽だまりのような暖かさに惹かれ、ザンザスも腕を回した。長い冬に春の日差しが芽吹く。彼の凍りついていた心臓は、春の陽気に誘われ溶け出したばかりだ。

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