「きら」
 
 ザンザスは驚いた。彼女を抱き起こそうと回した自身の腕よりも早く、きらの腕が彼の首に回されたのだ。
 
「ザンザスさん」
 
 涙に殆ど飲み込まれた声だった。疲弊しているだろうに、回された彼女の腕にはしっかりと力が込められている。
ザンザスはほんの少し呆然としてしまった。こんな抱擁、彼は全く予想しないなかった。行き場を失った腕を、ゆっくりときらの背中に回す。すると、また、先程よりも強く彼女は腕に力を入れた。じわじわと、凍っていた心臓の底が溶けていく気がした。ザンザスはこの気持ちを、感情をなんと表すべきかわからない。言いたい事も、聞きたい事、正しくは聞かねばならない事は沢山ある。でも、この感情のせいで言葉が見つからないのだ。途端に、言葉の紡ぎ方を忘れてしまった。知っている単語を選ぶも、どれもしっくり来ない。困っているザンザスを楽しむかのように、雪が彼の黒い睫毛の上に落ちた。こそばゆく感じ、それを払おうと頭を振る。そして、何となく、きらの頭の上に口づけを落とした。自身の動揺を悟られないように、何事もなかったふりをしてザンザスは彼女を抱えて立ち上がった。
 後ろに居たルッスーリアが、自身のコートを急いで脱いだ。そして、ザンザスの腕の中で目を伏せているきらに掛けてやった。
 彼らが車に乗った頃、彼らの足取りを隠すように雪は次第に強く降り始めた。
 
 それからきらは一週間ほど、ずっと寝たきりだった。屋敷に戻り、疲れ切ってはいたがたっぷりと温かな湯に誘われ、入浴せずに居られなかった。思ったよりも深く擦りむいていたらしい、膝の擦り傷が心配だったが痛くなかった事は覚えている。最新技術で作られた絆創膏はすごいものだ。ラベンダーの香る湯船から上がり、少し寝ようときらは思った。少しどころではなく、大分眠ってしまったのだが。今年のナターレは一味違うわよ、と張り切っていたルッスーリアは大層驚いた。部屋に食べ物を置いていけば、食べた形跡はある。水も減っているが、どうにも起き続けれないらしい。
 
「疲れてんじゃね」
 
 クリスマスツリーの星よりも明るいティアラを被った王子様の声は軽い。そ雨なのよ、とルッスーリアはため息をついた。往診にきた医師も疲労とショックで寝込んでいると話していた。元々、裏社会に生まれた人間ではないのだ。こちらに来て半年も経っていない。寧ろ、今まで寝込む事なく過ごしてきた方が珍しいだろう。鼻から少しずれてしまったサングラスを、指で直し彼は願った。きらがナターレまで目を覚ましますように、と。でも、残念ながら彼女は目覚めなかった。
 
「あら、ボスもういいの?」
 
「いらねぇ」
 
 ザンザスはエスプレッソを飲み干し、自室へ下がってしまった。誰もがそう思ったが、本当は違ったのだ。自室を通り過ぎ、幾つかの扉を過ぎた後、クリスマスリースが飾られた扉の前で立ち止まる。きらの部屋だ。
 彼女を驚かせないように、小さくノックをする。反応はない。眠っているのだろうか、それともシャワーに入っているのだろうか。ザンザスは静かに、音を立てないように扉を開けた。古い城だが、城主には忠実らしい。扉音も立てず静かに動いてくれた。
 
 扉を開けた時と同じように足音を立てず、これは彼のお手の物である、暗闇でも足を取られずに部屋の中を進んだ。ああ、やっぱり眠っている。ザンザスは小さくため息を吐いた。
 テーブルの上には、切り分けられた七面鳥が皿の上に乗っている。パスタと果物も。そして、ベルが手に持っていたサンタクロースの置物がいた。残念ながら。まだ手をつけられていないが。
 
 ううん、ときらの声が聞こえる。振り返るも、彼女は寝返りを打っただけだ。柔らかな枕に顔の右側が沈んでいる。
 
「・・・まだ眠いか」
 
 ザンザスは彼女の顔にかかった髪をどかしながら質問した。勿論答えはない。ヴァリアーで知る者はいないだろう、彼が毎日きらの部屋に訪れている事を。あの日、彼女が腕を伸ばしてきた瞬間を思い出した。ザンザスは何故だか、その瞬間が忘れられなかった。涙の膜が張った瞳は大きく見えた。瞳の奥底に濁る物は何もない。確かに、彼女に求められている気がしたのだ。今でもこの気持ちを何と例えるべきか、ザンザスにはわからない。ただ言えるのは、その瞬間から溶け出した心臓の底が温かいという事。そして、小さな蕾が色付いた事を、もう、無視出来ないというものだった。

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