激しい怒りがきらの中で湧き上がっていた。
それをぶつけるようにして、彼女は青年に悟られない様に握っていた土を目に向かって投げ付けた。
 
「おい!!!クソ女!!!」
 
 先程とは違う低く地が震えるような声に、きらは肩を撥ねさせた。
けれども青年に怯んでいる時間などない。彼女は最後の力を振り絞って、また走り出した。後ろでは青年の苛立つ声が聞こえる。足を踏み出すごとに額が痛んだ。でも、こんなの、ザンザスを馬鹿にされるのと比べたらきらにはどうでも良かった。
 救ってほしいなんて、考えた事もなかった。どちらかと言えば勝手に救われただろう、ときらは思った。彼女にとってみれば、彼が初めて彼女の感情を認めてくれたのだ。
 話を聞いてくれて、彼女という存在を認めてくれたのだ。
自分という存在を肯定された気持ちだったのだ。ずっとずっと、きらが欲しいと願っていたもの他ならない眼差しだった。爛々と怒りで燃え盛る瞳は恐ろしい。でも、時折見せる瞳は、雪夜に燃える暖炉の炎よりも優しかった。誰にも見せたこともないような、瞳の奥を射抜くような強い眼差しでもあるけれども、きらは嬉しかった。ザンザスさんに会いたい。魔法のようなワンピースはボロボロだ。タイツだって破れているし、膝も擦りむいている。恋する乙女なら誰しも避けたい姿だろう。でも、彼が無事なら良いのだ、ときらは懸命に青年から逃げた。
 
 でも、神様がいるとしたら、どうしてきらを困らせるのだろうか。まるで何かに引っ張られたかのように、彼女は転んでしまった。急いで立ち上がるも、青年に腕を掴まれてしまう。
 
「離して!」
 
「女が偉そうな口きいてんじゃねぇよ!」
 
 悲痛な声が夜闇に響いた。
きらは青年に頬を打たれたのだ。イタリアに来たばかりの、心細い彼女を案ずる青年はもうどこにもいない。彼の瞳の中は憎しみでいっぱいである。
 
「どうして」
 
 どうしてこんな事するの、ときらは尋ねた。彼女は青年から憎しみを買う理由がわからないのだ。他人と自分はただでさえ違うのに、生まれた時から一般人であった彼女と生まれた時から裏社会の人間の彼では違いすぎるだろう。彼女が理解出来なくても当然なのに、青年は腹立たしくてたまらなかった。
 
「ザンザスがボスの座を奪ったからに決まってんだろ!!兄貴から奪ったんだ!!そのせいで、俺たちのファミリーは地に堕ちたんだ!!!」
 
 きらの胸ぐらをこれでもか、と青年は力一杯に掴んだ。そのまま木の幹に背中を押し付けられてしまう。きらは驚いて何も言えなかった。先程の威勢はどこにもない。こんなにも、凶暴な、暴力的な憎しみをぶつけられた事はなかったのだ。ましてや彼女に対する憎しみでもない。ザンザスに伝えるべき憎しみを、きらに伝えているだなんて八つ当たりも良い所である。
 
「ここで死ぬか、俺の言う事を聞くか」
 
 青年の頭に血が上ってしまったのは火を見るよりも明らかだ。胸元から取り出した白く輝くナイフが、きらの細い首元から顎下にかけて当てがわれる。死への恐怖が彼女の中で迫り上げ、心臓を大きく鳴らせた。青年が何か言っているが、生憎、きらはもう自分の鼓動以外聞こえなかった。そのせいだろうか、額の傷が先程よりももっとズキズキと痛んだ。打たれた拍子に流れた鼻血も、先程より強く流れている気がしてならない。
 
「答えろって言ってんだろ!!!!」
 

 苛立った青年がきらの胸ぐらを激しく揺すった。そのせいで木に頭をぶつけてしまう。あ、あ、としか声が出ない。待って、とも言えない。
 
「死にた」
 
 きらの首元に当てがわれていたナイフが、青年の手からすり抜けていった。彼の最後の問いかけは、彼自身の断末魔で消えていってしまった。胸元が解放されたおかげだろう、詰まっていた喉が緩やかになった気がした。
 
「死にてぇのはテメェだろ」
 
 青年は刺された腹を抑えながら、憎いザンザスを仰ぎ見た。青年の顔には先程までの怒りに満ちた表情はない。ただただ、刺された事に驚いて何も言えないようだった。
 
「腰の抜けた兄弟だ」
 
 ザンザスがナイフを放り投げるや否や、見慣れた銀髪の剣士、スクアーロが青年の足を引っ張った。きらの視界から消えた所で、青年の苦しそうな叫び声が聞こえる。
 
 後で知る話だが、この辺りからきらはあまり記憶がない。
 
「きら」
 
 力なく座り込んだ婚約者をザンザスが抱えた頃、騒ぎを鎮めるべく小さな雪の精達が舞い降りた。

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