う、と情けない声が出た。先程の木々が恐ろしかったのか、もう走れないのか。突然足が止まったのだ。どこか湿った土が、これからの天気を予想させた。このまま雪が降ったら、それまでに言われた場所に辿り着けなかったら、見つけて貰えなかったら、ときらはどんどん不安になった。その不安を食い止めるように、彼女が目指す方向から銃声がした。音に引っ張られるように顔を上げる。黒く塗りつぶされた森が見える筈が、目の前には湖が広がっていた。敷地の中に湖などこさえているのだろうか。正解を知っている筈なのに。今の彼女には思い出せない。
 
「きら」
 
 湖の向こうから名前が呼ばれている気がした。聞き知った声だ。それも、彼女が恋をしているザンザスの声なのだ。
 
「ザンザスさん?」
 
 きらの声は湖に吸い込まれていく。そしてどうしてか、ザンザスが湖の中にいる気がした。彼女の瞳には紫色の星が浮かんでいる。穏やかだった湖面は次第に荒れ、湖の色を濁らせていった。手を伸ばしてみれば、彼の手が伸びてくる気がしてならないのだ。きら、と今だって優しく呼びかけてくるのだから。このまま引き込まれて、彼の腕の中に抱きしめられてしまいたい。彼の腕の中で、
 
 『いいかい、あるのは森だけだよ。湖も川も無いからね』
 
 腕の中に抱き締めていた不思議な赤子の言葉が聞こえた。このパーティーの前日の夜、暖炉の前でマーモンから教えて貰ったではないか。きらはハッとして、手を引っ込めて当たりを見渡した。安い幻術、そう言っていたではないか。でも、彼女が思い出すには遅すぎた。
 
「大変でしたよ、探すの」
 
 青年の顔が湖面に映るや否や、きらは髪の毛を引っ張られてしまう。
 
「・・どうして?!」
 
 髪の毛だけで頭を持ち上げるには重すぎる。痛みで顔を歪めるが、勿論青年にはどうでも良いことなのだ。
 
「どうしてここにいるか?ザンザスが弱かったから?」
 
「そんなこと、ない」
 
「失礼な女だな」
 
 ぐっと髪の毛を握る手に力が込められる。先程よりも少しだけ、顔が上に上がった。そして、青年はきらを投げ捨てるように地面へ落とした。額に火傷のような痛みが走る。それでも、青年に捕まらないように彼女は慌てて姿勢を直した。湖はもうない、あるのは黒く塗り潰された森だけである。
 
「来ないで」
 
 青年は自身の額を指差しながら、きらを嘲笑う。
 
「可哀想に。こんな寒い夜に、上着もなく外に放り出されるだなんて」
 
「放り出されてない」
 
「じゃあ何ですか?逃げてる?助けは?貴方は裏社会の人間でもないのに。一人で逃げるなんて」
 
  残念ながら青年の言う通りだ。きらは今まで一度も一人で逃げた事がない。所謂、世の中に置ける重要人物が一人で逃げるなど聞いた事もなかった。青年には負けまいと意気込んでいたが、早くも彼女の心意気は折れてしまいそうだ。
  
「駄目ですよ。ザンザスなんか信じちゃ。あの男は何もしてくれない。貴方に嘘は尽くし、自分の都合が悪いことは無視をする。あんな男が時期ドン・ボンゴレ候補だったなんて」
 
  青年は帽子を取り、汚れを払う。
  
「ザンザスは貴方を口実に自由を手に入れようとしてるだけなんですよ。制限下に置かれては何も出来ない。疎ましいボンゴレ、目の上のたんこぶを取る手段なんですよ」 
 
 額から血が垂れてきた。血で濡れた眉毛がこそばゆく、きらは荒々しく拭った。些細な瞬間でもこの青年に、隙を見せたくなかったのだ。
 
「随分と苦労したんでしょう。幼い頃からずっと。実母はもう亡くなったんですか?義母とは折り合いが悪いそうで。実父もでしたか?ザンザスに貴方の望むものは何もありませんよ。可哀想に、ずっと一人で」

 どうして知ってるの、と言いたい所だったが喉が焼けるように痛い。青年はきらが再び涙を浮かべる瞬間を見ては、仰々しく憐れむ表情をしてみせた。
 
「ずっと、子どもの頃から傷つけられてきたのに、また傷つきたくないでしょう」
 
 視界が涙で歪んでいく。一体どうして、自分の過去を知っているかきらは検討もつかない。でも、青年の言っている事は嘘ではなかった。一番認めて欲しかった人に、認めてもらえなかった。一番話を聞いて欲しかった人に、聞いてもらえなかった。それどころか自身の存在を恨んだ事すらあっただろう。目にも入れてもらえない。こわい、という自分の感情すら認めて貰えなかったのだ。自分の境遇を思ってないてくれる人間などいない、自分でさえ自分に泣けないのに。きらは悔しくてたまらなかった。どうして、この青年に、何も話してない青年に言われなくてはならないのかと。何も知らない癖に、と罵れたら良かったのに。
 
「そんな貴方をザンザスが救ってくれる訳がない」
 
 青年は両手を広げてきらの方へと近づく。膝をついて、彼女の瞳を覗き込む。幻覚からはとっくに目覚めているが、動揺している今がチャンスだと。憎いザンザスの婚約者を、きらを自分の手中に収める事が出来ると確信していた。しかし、それは彼の過信である。彼女の涙を拭おうと手を伸ばした時だった。
 
「救って欲しいなんて思ってない。あなたはザンザスさんの何を知ってるの」
 
 きらは青年の手を払い除けた。
 
「ザンザスさんを馬鹿にしないで」
 

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