黒く塗りつぶされた森がすぐに見えた。ここが抜け道だ、と知らさんばかりに入口はぽっかり開いている。
こんなのバレバレじゃないの、と思ったがあの廊下からではわからなかった。庭師のおかげなのかな、ときらはくだらない事を考えながら森の中へ飛び込んだ。まるで、真っ暗な海に飛び込んだような気持ちだった。右も左もわからない、自分がどこに向かえば良いのかわからない、そんな気持ちになった。そして、ああ、あの時ザンザスさんから離れるんじゃなかった、と彼女は後悔した。走りやすい靴よ、とルッスーリアが選んでくれた靴は確かに走りやすい。ハイヒールで恐竜から逃げられるわけがない。でも、今だって追いかけられる相手が人間なだけで状況は変わらないだろう。泣き出したいきらを叱るように、冷たい風が彼女の頬に触れた。涙が乾いた後の頬は乾燥している。走れば走るほど、頬は痛くなった。けれども、彼女は足を止める事が出来ない。ここで誰かに捕まっては、ザンザスに迷惑を掛けるだろう、ときらは考えていた。泣き出してはならない、そう冷たい風が教えているのに。きらはまた泣いていた。
 
「うう、」
 
 情けない嗚咽が漏れる。
 ザンザスの態度に腹を立てたのは事実だが、あの時冷静になれていれば、と後悔の念がますます彼女に涙を誘った。こんな風に大事にならなかったかもしれない、と。夜空には迷える子羊を導く星などない。雲の裏に隠れた三日月だけが頼りである。彼女を導く白い月明かりは見えないが、雲をうっすらとてしているだけマシだときらは思えた。月が消えないうちに前に進むべく、足を蹴り出した時だった。木の根か何かだろうか。月にすら見放されたのか、きらは足を引っ掛けて転んでしまった。そのまま転がり落ちるように、緩やかな丘の下に落ちてしまった。転んだショックで涙は消えた。丘を登らなくちゃ、と思うや否や、きらを探す声が聞こえる。ヴァリアーの人かもしれない!と一瞬胸を躍らせたが、すぐに彼女は息を潜めた。ヴァリアーの人間はきらがイタリア語がまだ得意でない事を周知していた。レヴィからも、イタリア語では呼びかけないと言われていたのだ。だから、ヴァリアーの人間じゃない可能性が高い。きらは呼びかける男の足音と声が遠のいていくのを確認してから、なるべく距離を取って、前の方へと進んだ。最後に丘を登れば良いと考えた。
 彼女を探す男の声が消えた。でも、程なくして、いよいよ月が彼女を見放した。分厚い雲に覆われ灯りが消えていく。薄手なのに暖かい不思議なタイツを履いていても、コートは消えていない。明日にでも雪が降るかもしれない、と言われている今日は十分に寒いだろう。前に進もうにもはっきりと見えない。ヴァリアーの人間であれば慣れた事だろうが、生憎きらはただの一般人である。立ち止まり、肩で息をしながら彼女はスマートフォンを取り出した。そして、画面の左下にあるライトの絵に指を置いて少し強く押し込んだ。走るのは遅くなったとしても、見えないより良いと思ったのだ。
 残念ながら彼女の名案は敵に塩を送るような物だった。ザンザスとの戦いから上手いこと抜け出せた青年は立ち止まって、両手で円を作る。彼は通常の人間であれば、見えないものが見えるらしい。だから、きらの居場所など雪山に足跡を残した野うさぎを追うようなものだった。幼い頃に彼女が感じた、恐怖を今一度再現することにしたのだ。悲鳴が聞こえれば、そこに向かえば良いのだ、と青年は嬉しくなった。やっと、やっと、仇が取れると。
 
「え?」

 先に進もうとする彼女の行手を阻んだのは人間でも、野生の動物でもない。
悪魔の目をした木々達だった。真っ直ぐ走り抜けれないなら、右に寄ってみようと走るも、木の枝が彼女の髪の毛を引っ張る。きらはいよいよ自分が可笑しくなったのかと思った。それでも力を入れて髪の毛を枝から引き離して振り返ってみれば、木は眠ったように静かだ。けれどもまた前を向くと、一際大きな木が体を彼女の方に乗り出してくるではないか。大きく口を開けて、彼女を飲み込もうとしているのだ。悲鳴を上げる前にきらは腰が抜けてしまった。声を奪われた人魚姫よろしく、声が出なかった。その場に尻から座り込んでしまう。瞬間、小さい頃に観たお姫様の物語に出てきた、怖い森だ、と記憶が蘇った。誕生日プレゼントで貰ったビデオは、ピカピカに輝いていて宝物だった。でも、あまりにもお姫様が逃げた森が幼かったきらには恐ろしかった。その晩は灯りをつけて眠りたかったけれども、父親が許さなかった。灯りをつけた部屋を見て、怒った父親の顔を振り切るようにきらは無理やり立ち上がった。もう、あんなのとうに昔の話だ、と。
 胸の中にある詰まりを、見えないようにきらは力の入り切らない下半身を引き摺るようにして前に進んだ。

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