きらが胸の端っこで願った、夢のような願いが叶ったとは言い難いだろう。

それでもあのザンザスがどこか困った表情で、自分の妄想かもしれないと彼女は思ったが、彼女の涙を拭ってくれているのだ。零れるのは涙だけで十分なのに、きらの心の中では湯水が湧き上がるように色んな感情がぼこぼこと湧き上がってきていた。

このまま泣き出してしまいたい、このまま彼に抱き着いてしまいたい、彼にふざけるなと罵りたい、と。口に出せない感情が胸元から喉元に上がっては彼女を困らせた。自分の感情なのに、どうしてこうにもコントロールが出来ないのか。だから、せめて、涙ぐらいは、と堪えれば堪える程喉は痛くなり、零れる涙は大粒になった。

勿論、この大粒の涙はザンザスも困らせた。ぼとり、と零れた涙を見ては眉間の皺がまた少し深くなる。苛立ちと言うべきか、困惑と言うべきか。彼もまた、自身の中に渦巻く感情に困っていたのだ。勿論、きらに対する感情にあたたかな色がつき始めているのも彼を困惑させるのに十分であった。
だからだろうか、まるで夜の水面に浮かんだ月をそっと撫でる様な、でも、どこか恐れているような。そんな風にザンザスはきらの涙を拭おうとしているのだ。

そっと、彼女を傷つけてしまわないように、涙をを拭えばきらと目が合う。
おとぎ話ならきっと、ここで王子様と口づけをして物語は終わるだろう、なんてきらは困惑しながらも思った。自分にもそんな幸せが訪れて欲しい。エバーエバーアフター、末永く王子様と幸せに暮らしましたとさ、だなんて。
ザンザスの心はわからない。自分だけの片思いかもしれない、と彼女はまた悲しくなり視線を床へと落とした。心は重なり合っていないが、二人の影だけは仲睦まじく重なっているように見える。

こんな風になれたら、と思った時にきらはザンザスに抱き寄せられた。
彼女を哀れに思った妖精が、賑わう広間から抜けて魔法の粉でも掛けてくれたのだろうか。泣いている彼女を宥めるように彼女の婚約者は、彼女の背中をゆっくりとさする。
そして、ザンザスは自身の背を少しだけまげて、まるで愛を囁くかのようにきらの耳元に唇を寄せた。

「俺が背中を押したら、この廊下の奥にある扉から出て行け。
森を真っすぐに抜けろ」

ザンザスの言葉にきらは驚き、顔を上げて彼を見つめる。けれども彼は何も言わず顔を横に小さく振るだけだ。二人の影は先程よりも重なっているが、恋人同士の抱擁と呼ぶには遠い。耳元で囁かれた言葉も愛の言葉でもないし、何なら命令のようなものである。
彼女が困惑するのもおかしくない。ザンザスだけが、忍び寄る陰に気付いているからだ。

どういう意味、ときらは聞こうとするもそれは出来なかった。
二人しかいなかった筈の廊下に、彼女の友達であった男がやってきたのだ。

「何の用だ」

赤い瞳が遠い廊下からやってくる青年の姿を捉えていた。
青年が近づけば近づくほど、ザンザスは不愉快な気持ちになった。自身のテリトリーに不躾に踏み入れられたような、そんな不快感に苛まれたのだ。勿論、彼の婚約者に近づいては花を贈るなどした事も許せないのだろう。

「きらさんを心配して」

青年はまるで自分は害などない、と言うように両手を広げて見せる。
彼がそうでなくとも、その後ろにいる男にザンザスは不信感を抱いているのだ。
きらは頬に残っている涙を自身で拭い、不審げに青年の方を見つめた。

「こんな色男が婚約者だと大変ですよ。彼はあなたの事をだましていますしね」

ぞわり、ときらは背骨が凍る気がした。青年の言っている事に動揺しているのかもしれないし、そもそもこの青年に恐怖を感じているのかもしれない。ちらりとザンザスの方に視線を向けるも、彼は何も言わない。

ただ二人の仲に亀裂を入れようとしているだけなのだろうか。
狙いはきらなのか。だとしたらとんだ命知らずであるが、この青年の本当の狙いはきらではないだろうとザンザスは考えてた。なんとなく見覚えのある顔なのだ。

「この婚姻は止めた方がいい、何も良い事なんかない」

青年は祈るように両掌を合わせ、まだ乾ききっていない瞳のきらに訴えかける。
彼女がますます困惑するのは言わずもがなだ。一体どうして、見ず知らずの、交友も深めていない彼が彼女の人生に口をだしてくるのだろうか。

「彼はあなたを騙しているんですよ」

この青年の言葉を聞いてはいけない。でも、一たび不安を被せられたら、その不安の答えを知りたくなってしまうのだ。好奇心とはやっかいなものである。不安の雲の中に隠れた真実を探そうとしてしまう。その真実が本当にあるかもわからないのに、そして、その真実が必ずしも彼女を幸せにするとも限らないのに。

「・・・どういうこと・・・」

不安の雲からただよう香りに彼女の心は攫われている。つい先ほど、きらの涙をぎこちなく拭ってくれた男の事だけ信じる事は出来なかったのだろうか。

「9代目は彼の父親じゃないんです。酷い嘘でしょう」

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -