きらは泣きそうになる気持ちを堪えながら、それでも涙は零れてしまうのだが、賑やかな広間から離れたところまでやってきた。庭へ繋がる扉が開け放たれているせいだろうか、ひんやりとした冷気が彼女の悲しい足首をさする。

すん、と鼻をすすり、壁の方に顔をやれば大きな鏡にうつった自分と目が合った。
美の女神が緩やかに眠っていた貝殻だろうか。貝殻からこぼれるのは涙ではなく真珠、穏やかな波打つ様が横に長い鏡を装飾している。ボンゴレ、という名前なのだろうか、と悲しみに飲まれた婚約者は考えた。鏡の前に飾られた薔薇は今日の為に使用人がこさえたものだ。瑞々しく、深い赤は神が流したという血を彷彿とさせた。

その薔薇のなんと血色の良いこと。対して、きらはどうだろうか。
ルッスーリアが施してくれた化粧は落ちていない。彼女の瞳を大きく見せるべく塗られたマスカラはウォータープルーフなのだ。頬に伝ったのは黒い涙ではない筈なのに、どうにも彼女の頬には黒い涙の跡があるように見えた。

『あなたのこと、とっても傷つけると思うわ。直接的じゃなくてね。例えば浮気とか。広間に何人いるかしら、彼と寝た女』

きらは先程の手洗いで出会った女の言葉を振り切ろうと、目を瞑った。それでも彼女は頭の中から消えてくれない。きらを値踏みするような視線や、勝ち誇ったような表情が何度も繰り返される。

『あらあら可哀想ね、あの子も』

初めて彼女を見たときの笑みが蘇った。雌として、強い雄に見初められた時の動物的な笑みである。悲しい夢を見て、泣きながら目覚めたようだ。きらの視界を分厚い涙の膜が多い、鏡を歪ませていく。もっと高潔な色をしているのに、彼女には目の前に飾られた薔薇があの女のしていた口紅と同じ色に見えた。言い得ぬ苛立ちが心臓の底から立ち込め、鎖骨の下で留まってしまう。堪えるには不愉快すぎる、けれども吐き出すにはあまりも大きすぎた。だから、きらは思わず薔薇を花瓶ごと床へ落としてしまった。

望むものはいつも手に入らない、幸せになれない、おとぎ話のお姫様にはなれない。

声を出さないようにしていたのに声が漏れ出してしまう。
彼女を慰めてくれるフェアリーゴッドマザーなどどこにもいない。心優しい動物もいない。ただただ、大きく美しく装飾された鏡が彼女の俯く姿を傍観するだけであった。

でも、あまりにも哀れだと思ったのだろうか。長きにわたりこの城で歴史を見てきた鏡に意志でもあるのだろうか。ザンザスは何故かその鏡の存在を思い出した。騒動を知ったルッスーリアは酷くショックを受けた様で、閉口していたが、突然広間を飛び出したザンザスを目で追いかけるばかりだ。

鏡のせいなのか、ただたまたま、ザンザスの勘があたったのか。

予想通り彼の探している婚約者は、彼が想像していた場所にいた。
彼女の足元には花瓶の破片とまだ麗しい筈の薔薇である。誰かに攻撃されたという訳でもなく、きらがやったのだとザンザスは理解した。

「・・・気が済んだか」

声のする方、自身の歩いてきた道の方へ首を向ければ彼女の想い人の姿があった。
ザンザスは何事もなかったかのように、悠然と立っている。
ただ立っているだけだ。それでもきらには彼のその振舞いすらが、自身を惨めに見せている気がして悲しくなった。

「私が悪いんですか?」

「あんな女忘れろ」

何を言われたかザンザスは知らない。
それでもきっと、彼女を不愉快にさせる言葉を言ったのだろう。例えば寝たとか。きらの知らない遠い過去で起きた事を思い出した。
あの女とは寝ていない。でも、ザンザスはここできらにそれを説明するつもりはなかった。体の関係など持ってないが、今言っても無駄だと思ったからだ。それに、あの女は追い出されたし、二度と会う事はない。上手く慰めて、どちらかと言えば丸め込もうとしているのだが、広間に戻りティモッテオに挨拶して帰れば終わりだ、とザンザスは考えたのだ。

「戻るぞ」

「いや!触らないで!」

けれども、きらはザンザスの事を拒絶した。
先程薄くなった筈の涙の膜は再び分厚くなり、きらの瞳を覆う。そのせいで彼女の丸い瞳は穏やかな揺りかごがゆれるように震えていた。強く言い返された暴君は驚き短く瞬きをした。

「どうして私の話を聞かないの?無視しないで」

瞳の底にあるのは対話をしようとしないザンザスへの怒りであったが、あらゆる感情が彼女の体を駆け巡った。きらの胸の内側をかき乱しては、彼女を混乱させているのだ。

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