かつて向けられた敵意は今のザンザスからは感じられなかった。
赤い星の真ん中、その底で燃えていたはち切れんばかりの業火はどこにもない。今まで知り得ない彼の、触れる事が出来なかったであろう彼の柔らかさに僅かに触れられている気がしてきらは嬉しかった。

ザンザスもザンザスで、彼女のまあるい瞳の真ん中に映るものは何かと覗きたい気持ちになっていた。気付きまいとしていた感情に小さな火が着き、彼の体の中を色めいた煙で満たそうとしている。彼の心臓に巻き付いていた幼い蔦の棘はすっかり小さくなり、薄紫色の煙に蒸されてしまいそうなくらいだ。
多分きっと、ここがボンゴレの屋敷ではなくて彼の城であるヴァリアー邸であれば、ザンザスは彼女の手を取り引き寄せていたかもしれない。薄紫色の煙の中にきらを取り込もうとして、彼女の瞳の底を覗こうとして。

けれどもその煙を払うように雨雲がやってくるのは何故だろうか。


「きらさん」

名を呼ばれ振り返れば、ザンザスの父親であるティモッテオが後ろにいた。ザンザスと二人で話したいと言う。勿論、彼女は断る理由などなく、強いて言えば彼ともう少し話したかったのだが首を縦に振った。

一人広間に残されたきらはルッスーリア達を探したがどうにも見つけられない。まあ手洗いくらい、と一人で彼女は手洗いの方へと向かった。用を済ませ手を洗っている時だった。

雨雲が静かにきらの方に迫ってきた。

「あら、お久しぶり」

貝殻で飾り立てられた大きな丸鏡に自分以外の人間が映ったのだ。女は覚えてない?と両手を広げてみせる。指先に彩られたグリッターネイルがきらの瞳にちらついた。

「・・・こんばんは」

彼女の声が思わず強張ったのはこの女が嫌いなんだ、と気付いたからである。
イタリアに来て間もない頃に参加した懇親会で見た赤毛のショートヘアの女だ。ただの女ではない、ザンザスと親し気にしていた女なのだ。

「ザンザスの婚約者だっけ?大変ねぇ」

女はそう言いながらクリスタルで出来た蛇の頭が取り付けられたクラッチバックからリップを出す。鏡を見ながら、丁寧に唇の淵をなぞっていき、少しでも淵に左右差があるものなから女は指で拭っていった。

「あの人って難しいのよ。すっごく。苦労すると思うわ。機嫌が良いかと思ったら不機嫌になったり」

薄暗い雲が次第に暗くなっていく。どうして何度振り切ろうとして、振り切ったつもりなのに雨雲はきらを追いかけてしまうのか。彼女は心のざわつきを落ち着かせようと女にばれないように深く息を静かに吸い込んだ。

「あなたのこと、とっても傷つけると思うわ。直接的じゃなくてね。例えば浮気とか。広間に何人いるかしら、彼と寝た女」

なんちゃって、と口紅を塗り終えた女が意地悪そうに笑う。鏡に映るのは本当に女なのだろうか。麗しい女の皮を被った海の魔女ではないか、ときらは思わず顔を歪めた。


「だから?」

「そんなに怒らないで。アドバイスしてあげてるだけなの、あなたが彼と上手くいく様に。夜の方はどうだった?満足させてあげれた?」

「・・・関係ないでしょ」

「彼、夜ってとっても激しいのよ」

きらの事を値踏みするように女は彼女の爪先から頭のてっぺんまで視線を這わせる。
この女が言っている話が本当かどうかもわからない。

「私はあなたに求めてないから」

自分との距離を取るようにきらは両手を女の方へ見せた。冷静さを装っているも彼女の心臓は突然の雨に驚いたようで次第に拍動が速くなる。冷たい雨に打たれたかのように指先が冷たい。幸福な気持ちに水を差されたのは不愉快だ。不愉快だけれども、何故見ず知らずの人間に心をかき乱される必要があるのだろうか。雨雲は完全にきらの上に昇りつめ、大きな音を立てて降り出した。

「どいて!」

きらは自分でも予想をしていなかった程に大きな声を出した事に、赤毛の女の驚いた顔を見て気付いた。女を押し退けて、歴史をたっぷりと吸い込んだ重い扉を開ける。足早に広間の方に戻ろうとするが、相手の女は麗しい顔を歪ませてきらを追いかけた。

「待ちなさいよ!!」

後ろから彼女を罵倒する声が届く。しばらく忘れかけていた皿の割れる音がきらの頭の中で木霊した。ザンザスの険しい顔と、彼女を拒絶する怒鳴り声も後を追うように頭の中で響いた。頭の中でしか聞こえない筈なのに、今目の前でやられているように聞こえるのはきらが取り乱しているからだろう。堪えて、堪えて、と彼女は自分に言い聞かせるように廊下ですれ違う人間の間を雑に縫っていった。

「あんたって本当にビッチね!!!」

そう叫ばれた瞬間にきらは人とぶつかってしまう。
女にぶつけられた怒りの感情に飲み込まれて行ってしまった気がしてならないのだ。床はふかふかと柔らかな絨毯なのに、きらにはぬかるんだ泥の上を歩いているようにしか思えないのだから。たった一人の、得体のしれない女にかき乱されてしまう自分が悔しかった。やるせなさに苛立ちながらぶつかった相手を突き離そうとしたが、相手は離してくれない。

それもそのはず、相手はヴァリアーのプリンスだったのだ。

「お前の方がビッチじゃね?」

ベルはきらを庇う様に女との間に立ちはだかる。女は尚も言葉を紡ごうとしたが、ベルがジャケットの中に腕を入れたのを見て後ずさりした。けれども時すでに遅し、ボンゴレの若手が騒ぎを聞きつけ女を後ろから捕まえた。諸々事情があるにしろ、きらはあくまでもドン・ボンゴレの息子の婚約者なのだ。

女は往生際悪く、ボンゴレの若手にすら激しく罵ったが声は次第に遠のいていった。


「きら、だいじょう」

大丈夫、とベルは最後まで言えずに口を紡いだ。

ザンザスの婚約者である彼女がいまどこを向いているかわからなかったからだ。

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