水面の底を恐る恐る覗き込むような始まりだろう。
陽の光を十分に吸い込んで、温かそうにも見える。誰も傷つけることもなく、誰もを受け入れてくれそうな湖の底を見ようとしているだけなのだ。なのに、きらがそこを覗き込んで、手を入れればどういう訳か薄く赤いものが湖面に浮かぶ。

絆創膏のつきが悪いようだ。

きらは静まりかえりつつあるヴァリアー邸の廊下をのろのろと歩き、ルッスーリアに絆創膏を貰いに行こうとしている。キッチンでやけに硬いじゃがいもを切っていた時に、うっかり指も切ってしまったらしい。水にさらしたじゃがいもを取ろうとして気が付くも、既に柔らかなシルクのリボンの様に血が水の中を舞っていた。

天使が纏うにはあまりも強い色だ、でも、赤いドレスを纏って踊った時に翻った裾のようにも見えたな、ときらは思う。間近に控えたパーティーの様子を想像しながら、ベルに何度も付き合ってもらったダンスのステップを思い出した。彼の言う通り、ザンザスと踊る事はないだろうに。足元にうつっている影と同じだ、と月明かりが差し込む廊下を眺めては妙に寂し気な気持ちになる。きっと自分はザンザスと相いれない。

ドレスのように頭の中で舞っていた水の中で浮かんだ血が消えて、たちまち何か黒い靄がかかる。突然の大きな雨雲だ、雨雲はどっしりと厚く大きな雨を降らせ一瞬にしてドレスを流しては、きらの頭の中をめちゃくちゃにした。どうしてこんな風に悲しくなるかも彼女にはわからない。わかるのかもしれないが、気付かないふりをしているのだろう。

そんな自分を蔑むように見つめる影が恐ろしく見え、きらは慌てて顔を上げた。顔をあげて、窓の方を向けば彼女の心を乱す男の姿があるではないか。

「何してるんですか」

ザンザスであった。声をかけるかどうか迷っているつもりだったのに、気付けば口が動いていた。庭園へと続く階段に腰かける彼に声をかけてみたのだ。答えは返ってこないかもしれないが、声を掛けずにはいれなかった。

「何かしてるように見えるか」

「・・・いいえ」

無視しようか考えていたのだろうか。ゆっくりと、百獣の王である獅子が重たい腰をあげるような、そんな答え方であった。仕事終わりなのだろう。コートを着たまま階段にこしかけているのだ。

「お前は何してんだ」

「え、いや、特に」

「はぁ?」

何もしていない訳ではない。目的もなく寒い廊下へ出た訳ではない。本来の目的がある筈なのにきらはそれが言えなかった。まさかザンザスに質問を返されるとは思っていなかったから、思わず否定してしまったのだ。

「ルッスーリアに絆創膏を貰いに行こうと」

彼女の言葉にザンザスは怪訝そうな視線を向けた。自分に関心があるのだろうか、なんて、少しだけきらの頭の中の雨が弱まったのは言うまでもない。絆創膏を求める理由を伝えれば、彼はただ鼻で小さく笑った。予想の範疇だ。会話は終わり、森の中から梟なのか鳩なのか、鳥の鳴き声が聞こえる。なんだか、彼の側を離れたくない気がしてきらは思い切って彼と同じ様に階段に腰かけてみた。

ザンザスに嫌がられ、屋敷の中に戻ってしまうかと思いきや、そうでもないらしい。
彼女の方を見ずとも、腰かけた事は気配でわかったが彼は黙ったままだ。彼女が自分の側に居ようが居まいが、どうでも良いのだが、いなくなった方が嫌な気分だった。

「もうすぐ、ですね」

「ああ」

まるで深い森に鏡があるかのように二人はじっと、森の方を見つめてばかりだ。隣にいるのに、互いの顔を見ない。月明かりによって生まれた影すらよそよそしい。
適当には掴んできてしまったブランケットを羽織り直して縮こまる。彼に気付かれないように、と彼の様子を伺うように横目でザンザスを見遣った。

寒く空気が澄んでいるからだろうか。どこか月明かりの青白さを吸い込んだせいで彼の白目はいつもよりも白く見え、赤い瞳がより一層赤く見えた。その瞳の中に蠢いているのは遠く宇宙の彼方で燃えている星雲かもしれない。

「仕事、忙しいですか」

ワンテンポ遅れて、短くイタリア語で別に、と返ってきた。そっか、と独り言のようにきらも返す。じんわりと指の先が暖かくなるような気がしたのせは気のせいじゃない。嘘ではない。きらは折り曲げた膝に頬をつけ認めた。ああ、自分は彼に好意を抱いているのだと。

出会った頃に起きた激しい衝突を忘れた訳ではない。
もし今、彼に手を伸ばされたら体を引いてしまうだろう。それでも、その衝突を塗り重ねていく程の血の滲む事件がいくつも起きたし、起きる度にザンザスが彼女を助けてくれたのも事実だ。心の中でどこかにあった、自分は誰にも助けてもらえないという気持ちが薄れていくのをきらは感じでいたのだ。彼女を助けるのに様々な事情が絡んでいるのもまた、彼女は理解していた。そうであってもきらは眩暈が起きそうな事件から生還出来たのはザンザスのおかげだと思っている。

ルッスーリアに言われた通り、恋、と認めるにはまだ気持ちが整ってはない。確かにザンザスに対して向ける気持ちはほの甘い。今だって、闇深い森と月を眺めながらも、頭の中で思い浮かべているのはザンザスだ。
あの日、役所で襲撃された時の彼の手を思い出す。もし、今、側にいて手を握られたらどんな気持ちになるだろうか、逃げだしてしまうだろうか、それとも、だなんて。

ザンザスのポケットに潜り込んだのはフェイクスノーであったが、きらの指先に訪れたのはほんの少しの体温で溶けてしまう、雪の結晶のような可愛らしい恋心だった。

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