「・・・ごめんなさい」

きらの腕を僅かに掴んだザンザスの手は拒絶された。そして、何か、恐ろしい化け物に襲われたかのような悲鳴をあげたのに驚いたのは彼女本人だけではなかった。ザンザスもいくばくか動揺をしているようで、眉間の皺は深い。彼女は見てはいけないものを見てしまった気がして、思わず目を反らした。

「考え事、してて。ほんとに、ごめんなさい」

雲が窓に縋りつこうとしている。今日は雨がふるらしいが、雪に変わるかもしれないという予報だった。いっその事、今にも降り出してこの場から逃してくれたら良いのに、ときらは思った。
ただ、ザンザスに対して悪いと思っているのは本当である。ヴェントの青年の、粘りつくような視線をきっかけにこれまでの嫌な出来事を思い出していただけなのだから。
すっかり、別の世界に思考が飛び込んでしまったようで、ザンザスの腕に引かれた時に彼女はヴェントの青年に腕を引かれたのかと思ってしまったのだ。

「あの、何か」

また、あの青年がやってきて自分のせいで、何かが起きたらどうしよう、と不安になっている。まるで、自分が貧乏神をこの屋敷に招き入れたようで、きらは一人責任を感じていたのだ。どんなにルッスーリアに言われても、あの青年は永遠に自分に纏わりつこうとしている気がしてならない。

「物憂げだな」

「たまたま、たまたまです」

視線を合わせないきらと異なり、ザンザスは彼女をしっかりと見つめている。
彼の呆れた様な物言いに妙に焦ってしまうのはなんだろうか。自分の悲鳴のせいで驚かせてしまったことを謝らなくてはいけないかもしれない、と思うもきらは何も言えなかった。ザンザスが何か言うのを待つばかりである。待つと言っても、返せる言葉は泳ぎ方をしらない魚のようにぶくぶくと溺れているようだが。

「・・・嫌か」

「え?」

「恐ろしいか」

何を、と聞き返す前にザンザスはまた一たび彼女の腕を掴んだ。突然のことで彼女は驚いたように目を見開いて彼の方を見つめ返したが、彼はどうにも真剣である。彼の瞳にうつったきらは、彼女自身は何かに怯えているようで、瞳の中の自分等はっきりと見えるはずがないのに、今にも泣き出してしまいそうな顔をしているように見えたのだ。

自分は今、どんな顔をして彼と話しているのだろうか。そして、彼はどんな気持ちになっているのだろうか、ときらは途端に不安な気持ちになった。

彼を何か傷つけたのだろうか、と。

彼に傷つけられたのは他でもない彼女で、彼にされた出来事を許した訳ではないが、そこまで頑なな態度を取れる程の頑固者でもなかった。
どういう訳かきらには目の前にいるザンザスが彼女の知る横暴な彼でもなく、演技的にこちらを怯えさせようとしている彼ではなかったのだ。もっと言えば、自分をうつしている瞳が恐ろしく暗く見えた。

世界中の灯りが消えても煌々と燃え続ける赤い星のような瞳は、どんな勇敢な勇者も覗こうとしないのではないか。そんな瞳にうつる自分はどんな顔をしているのだろう、と思わずきらが首を傾げた時だった。

「あっ」

ぴくり、ときらの睫毛が怯えたように跳ねた。
無理もない、ザンザスが彼女の首から頬にかけて手を添えたのだから。彼の瞳を覗こうとした彼女の瞼はしっかりと閉じられ、緊張したせいで上がってしまった肩は小さく上下している。
このまま手を首根っこに回して、引き寄せて問いただしてみたらどうなるだろうか、とザンザスは想像した。彼女の瞳はまたたくまに濁り始めて、もっと、さっきよりも怯えた顔でこちらを見つめるだろう。きっとそうだ、とザンザスは未来を先読みしてきたかのように断定した。

でも、その彼女の顔を想像しては酷い嫌悪感に襲われたのは何故だろうか。


「・・・ザンザスさん・・」

苦虫をかみ潰したような顔をする彼にきらはおずおずと声をかけた。自分ではない何かを見つめていたようだった彼と視線が確かに定まる。

「あの、イタリア語、レヴィが待ってるから・・・」

僅かに眉毛を動いたのを婚約者は見逃さなかった。手を頬に添えられているという状況に背中は硬く張りつめている。前も談話室でこんな事があった、と思い出したがあの時とはどうにも様子が違うのだ。まるで何か、こちらに望んでいる気がした。

でも、きらは彼が何を望んでいるかもわからなかったし、彼も何を彼女に求めているのかわからなかった。

「さっさと行け」

ベイビーグリーンの蔦がぎゅっとザンザスの心臓を締め付けた。


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