見知らぬ感覚をなぞっている。
見知らぬ感覚をなぞっているせいか、目の前で自身の生涯の伴侶となるザンザスの行動をきらは信じれない。
表面的で全てが夢のようで何かも自分の身の回りで起こっているとは思えない程にきらは何も実感が出来ていなかった。
イタリアに来て2週間、時差ボケも抜けて体はこちらの時間に慣れる頃である。しかし、地に足をつけて歩いている筈なのに異様な浮遊感が彼女を襲うのだ。峡谷で見た糸杉の下に転ぶ死体はハロウィンに向けて誰かが仕掛けた残酷すぎる精巧な人形で、血が飛びっていた助手席だって血ではなくて赤い絵の具だったのではないか。そんな気がすらするのだ。
それに、さっきも座って食事をしていたのに誰かの皿とナイフ擦れる音がテレビの中から聴こえてくるような感覚だった。
『まあ、ザンザス様の婚約者なのね』
そういう女性は何処かの国のお姫様のように麗しかった。この女性だって、人間ではなくて人形なのかもしれない。そんな浮ついた感覚で過ごす懇親会は実に居心地の悪いものだった。ボンゴレと同盟を結ぶ内の特に親しいわずかなファミリーが集まる懇親会にきらはザンザスとスクアーロと出席している。食事を終え、デザートは紅葉麗しい庭でと移動を促され外へ赴けば様々なデザートがあったが、それすらも張りぼてに見えてならない。重くるしいクリーム、油絵の具のようなヌテラは今にも固まってしまいそうだ。
けれどもその浮遊感は次第に薄れ、きらに彼女の世界に張り付いている薄氷の存在を知らしめていく。堪え兼ねて化粧室に逃げたものの、懇親会に戻る気になれず廊下をうろついていたのがよくなかった。
そう、目の前で婚約者であるザンザスが女と親しげに会話をしていたのである。
「知らねえよ、あんな女」
皿とナイフの擦れる音がきらの中でまた響き始めた。心臓に響くような、体が縮み上がるような、人を不安にさせる音だ。
「あらあら可哀想ね、あの子も」
赤毛のショートヘアの女は悦に浸った笑い声を洩らし、ザンザスのネクタイに触れる。彼女と彼の関係がどんなものかきらにはわからない。それでも、きっと本能的に彼女が断言できるのは同性として彼女の方が優っているということだ。雌として、強い雄に見初められた時の動物的な笑みだ、ときらは思わずにいられなかった。こういう女はいつだって恐ろしい。皿をナイフで引っ掻く音が大きくなり、頭蓋骨が切り込まれそうだ。知りもしない赤の他人のテーブルに置いてあった皿を頭の中で描けば割れてしまいそうだ。
「いいの?ここにいて」
女はザンザスに口づけを促すつもりで、ローズゴールドの爪をした手が彼の頬に伸びる。そして、触れ切らないうちにきらの脳内で皿が粉々に割れた。ナイフのせいで割れた筈なのに、聞こえた音は大理石の床に叩きつけられた時の音だ。粉々になり、誰かの低く地を這うような声が聞こえる。その声から逃げるようにきらはその場を静かに抜け出した。角を曲がり、早歩きで廊下を進んでいき裏庭にある噴水のそばまで行き着く。
このまま自分を雲の中に隠してほしい、何も誰にも気づかれないようにしてほしいと願う。きらの脳内で響いている皿の割れた音はザンザスが一昨日、彼女への抗議を示すべく落とされた時の音だったのだ。
『誰がこんな女と飯が食える!!!』
あまりにも激しい拒絶だった。料理は床へ投げ出され跡形もなかったし、なんならくずれた粘土のようにきらは見えていた。ザンザスは彼女に視線を送ることもせず、自身の名前を改めて名乗る事もなければ年齢も、何も言わなかったし、彼女に尋ねなかった。彼は自分を知る必要も教えるがないと信じているが故の行動なのだ。きらもわかっていた。自分は望まれていない、望まれていないならば何にも期待をしてはならないと。ザンザスの怒声も、割れた皿の音も、悦に浸る女の声も全てをなかった事に、と記憶の中で霜が張り巡らされる。
このまま、このまま、
「すごい肩に力が入ってますよ」
細かくひび割れていくような霜の動きが止まった。きらは声をかけられた事に驚き息を飲んだ。
「きらさん、はじめまして。僕はヴェントファミリーのものです」
「・・・初めまして」
青年はきら何かに怯えたような瞳に気付きながらも彼女のそばに腰かけた。異形のもの、とまではいかないがきらが彼を異質のものとして警戒するように捉えているのは事実だ。腹の奥底を、自分すらも気づいていない何かに視線を投げかけられているような気がして青年は前を向いて他愛もない話をする事にした。
「そう、だからここの地域ではボンゴレが強いんですよ。僕も関われて光栄だと思っています」
青年の誇らしげな眼差しを横からみやり、きらは幸福そうな人だと考える。きっと彼の抱える花瓶には綺麗な水がたっぷりと入っているのだろうと。いくばくか心を落ち着けたきらの瞳から緊張感が抜けたが、青年が自分ではない何者かに後ろの方へ視線を投げかけ始めたのに気づいた時、力強く腕を引かれきらは立ち上がらざる終えなかった。
「何の用だ」
「これはこれは。ちょっと、きらさんと話してただけですよ。では、また」
あまりにも突然、強く腕を引かれたので彼女はよろけてしまいザンザスに寄りかかっている。慌ただしくその場を去る青年はまるでザンザスを避けているようだった。
「うろちょろすんじゃねぇ」
ローズゴールドの爪をした手を思い出し、きらがムッとしたのは言うまでもない。
「してません」
「おお、ここにいたのかぁ」
「見張ってろ」
ザンザスは乱暴にきらの腕を突き放し、スクアーロの方に投げやるような仕草を見せた。屋敷に戻る、と言って道を急ぐ彼の後ろを銀髪の剣士と共についていく。
「・・・あの男と何話してたんだぁ?」
「なんか、イタリアと日本の気候の違いとかナターレ?クリスマスのこととか」
「ナターレ?」
「私の緑色のワンピースを見て話したくなったんだって」
きらがザンザスの瞳に不穏な炎が灯されているのを知るのはまだ先だ。
永遠の命、永遠の春を表す緑色の服が燃やされない事を願うのは無謀だと言うことも。