意地悪な幻覚にいたずらされた日からきらはザンザスを目でよく追うようになった。
彼の事は何も知らない。知らなかったし、多分知ろうともしなかったのではないか、と。
知りたい気持ちが視線に現れてしまうのは決しておかしな事ではないだろう。彼に視線を這わせているのが気づかれないように、こっそりザンザスの様子を見てしまうのだ。
「きら、ボスとクリスマスまでに仲良くなれそう?」
「うーん、どうだろう」
その事実を知ってか知らずか、ベルはマシュマロを齧りながら尋ねる。
裏社会に嫁入りするきらには学ばなくてはならない事が多い。裏社会の事は勿論、妻として並ばせた際に教養が無くては困る、という理由で仕事の合間を縫って幹部が彼女に必要な事を教えているのだ。今日も、その一環でベルから勉強、何かについては当日まで謎だったが、教わる予定だったのに庭で焚火をしながらマシュマロを焼いていた。
「ボスに殺されてないだけ僕は良かったと思うよ」
「・・・殺された人いたの?」
「居ないワケがなくね」
マーモンの言葉よりもベルの言葉にきらは恐怖を覚えた。とはいっても、彼の性格やこの世界を思えば当然かもしれない。妙に納得してしまうが、確かにマーモンの言う通り生きているだけ良かったのだ。
ベルとマーモンは過去に何度もザンザスが異性関係で揉めては、上手に始末してきたのを知っている。どんなに蜜月状態の異性が居ても、どんなに気立てが良くて美しくても、誰にもザンザスの心臓の奥を射止めれなかった。だから、二人の正直な心の内を言えば、きらなんてとっくに殺されてしまうんじゃないかと、ずっと思っていたのである。たまたま、ヴァリアーの活動条件の抑制解除の条件であるからザンザスが我慢しているだけなのかも、とベルは何度も考えた。
「むぎゃ!」
「わーっ!マーモンごめんね!!」
その婚約者が談話室から持ってきたフェイクファーを引っ張った時だった。一冊の本が出てきて小さな幻術使いに当たってしまったのだ。きらはそもそもこんな本があったかどうかすら記憶にいまいちない。ベルに庭に早くでるよう急かされて気付かなったからだろう。
「それボスの本じゃん」
「えっ」
「なんか修道士が探偵みたいな事する本っしょ」
ちょっと違うけどね、とマーモンは思ったが彼もベルもその本を談話室に持っていきたがらなかった。多分仕事でいないよ、と背中を押されてきらは渋々談話室へまた急いで戻る。ソファーに置いておけば誰が触ったかどうかなんて流石のザンザスもわかりやしない。談話室に置くくらいだ、誰かに触れられても気にしない。
「・・・何でテメェが持ってる」
仕事から戻るのはまだ遅いと聞いていた筈なのに。ザンザスはどうやら早々に屋敷に戻り、談話室に置いてきた本の続きを読もうとしていたようだ。記憶違いだったか、と談話室を見渡した頃にきらが彼の本を持って入ってきたのである。
「あの、いや、ブランケットに間違えて巻き込んでくるんじゃって、ごめんなさい」
彼女の言動を疑っていると言わんばかりの眼差しが彼に向けられ、きらは遠慮がちに机の上に置いた。まるで自分の挙動を一つも漏らさず見ようとしている気がして彼女はすっかり恐ろしくなっているのだ。あの時のようになる事はないと思っても、そうならない保証はどこにもない。彼女にとってザンザスは何も読めない男なのだ。何も読めない男、婚約者なのに知っているのはそれしかない事にふと気づき、きらは寂し気な気持ちになってしまった。
この本だって端は擦り切れているし、背の部分にはいくつにも縦線が入っている。彼がよく読んできた事を読み取れる。これ以外に本は読むだろうか。映画も、音楽も観たり聴いたりするのだろうか。彼の趣味を知らなければ勿論、子供時代も何も知らない。ああ、婚約者とは誠に名ばかりの寂しい関係だ。
「それ、好きなんですか?」
「・・・知ってんのか」
「いいえ・・・」
「十四世紀の北イタリアが舞台で、修道士たちが怪奇事件を解決する話だ」
「へぇ・・・」
彼女には情報量の多い説明だった上に、ベルの言っている事と乖離しているが間違いなくザンザスの説明が忠実だろう。それでも一応ベルは名作だと言っていた。映画化もされているらしいがきらには全く知らない。多分、十四世紀が舞台の話を読んでも理解できないような気もした。
『御曹司だからな』
ふと、スクアーロの言葉が思い出される。
御曹司であるならば、今彼女が学んでいる所謂教養などは幼いころに学び終えているだろう。振舞いは乱暴であっても本当は育ちが良いのだろうな、ときらはぼんやりと考えるばかりだ。
「人の顔じろじろ見てんじゃねぇよ」
「ご、ごめんなさい」
もしここに小さな妖精がいれば、ザンザスの声に怯えて飛んで行ってしまっただろう。
その痕跡を辿るには彼女らの羽から零れた金の粉ぐらいしかない。でもきらは恐ろしくその妖精達に助けて欲しいと願うだろう。
「どういう風の吹き回しだ」
彼女自身、彼にこうして話掛けられ続けるなんて思いもしなかったのだから。
部屋を出ようにもこの質問に上手く答えなければ扉が開かない気すらした。きらの落ち着かなさは手に現れていて、先ほどからずっと親指の爪を撫でている。
「私達、お互いの事何も知らないと思っただけなの」
胸に何かつっかえているかのように少し苦しそうに、ゆっくりと話した。
苦しそうな彼女に対してザンザスは自身を見つめてくる眼差しに見つめ返すのみだ。
ベッドの上ではあんなに恐ろしい、と思っていた彼の瞳なのに今はそんな風に思えない。吸い込まれてしまいそうな瞳である。けれどもきらにはこの沈黙は心地良いものではなかった。彼が二回瞬きをしただけなのに、酷く長く、重い沈黙に感じられてしまう。
こんな親の決めた婚姻、こんな女願い下げだと思っているのだろうか。
彼女だってこんな男なんて嫌だと思っているのに、いざその状況になるとこんなにも遣る瀬無い気持ちになのかと、どんどん気持ちが滅入って前が見えなくなる様な感覚に陥ってしまったのだ。
「・・・そうだな。何も、知らねぇよ」
ただ、互いに互いを知らないと認めただけなのに、きらには何故だか初めて視線と視線がしっかり合った気がした。互いの瞳の底を見ようとしているかのように。