記憶に張り付いていた薄氷はどこにもなくて、きらの気持ちを抑え込み方を少し忘れてしまった。
目の前で始まったのが報復だというのはわかっている。ザンザスと初めて食事した日に見た、葬られた男の仇を取りに来たのだ。あの男の死が無駄にならなかったのだな、ときらは水の中に沈み行きながら考えてしまう。

うっすらと瞳をあければ寂しげな水の世界が広がる。冬を控えた湖だ。どこか灰色がったような、夜の訪れを感じざる得ない場所だ。冷たいのは当たり前なのに、それ以上に異世界へとやってきた様な不思議な感覚が彼女を襲う。生き物がいればいくらか違うのかもしれないが突然飛び込んできた、否、投げ飛ばされたきらに怯えて生き物はどこかへ隠れてしまっただろう。見えるのは彼女が動いたことで生まれた水泡と洋服の袖や四肢くらいだ。
それに聞こえるのは彼女自身の水をかき分ける柔らかな丸い音だけで、彼女は完全に素知らぬ世界にやってきた異邦人となってしまった。

冷たい、冷たい。

どうにか湖面に顔を出そうと上に向かって泳いでいる筈なのに中々進まない。服が重いせいだろうか、それとも本当に湖の中ではなく異世界に飛び込んでしまったのか。きらはただ夢中になって上へと手を伸ばすばかりだ。

「カスが図に乗るな」

きらが投げ込まれた湖を振り返る。
曇りのせいか色濃い暗い色をしており、覗き込む者全てを取り込もうとしている禍々しいものにザンザスには見えた。もしかして、この湖の底で眠る何か恐ろしく大きなものにきらは飲み込まれたのかもしれない。何せ湖面は波一つ立っていないのだから。湖から眠るようにして息絶えた彼女を想像する。沈みゆく体に血色などない。人形のように、静かに湖の流れに任せるのみだ。いっその事、このまま死んでしまったと報告しようか、と思ったがそれよりも先にルッスーリアの悲鳴が後ろから聞こえる。


「まあきらちゃん!!!大丈夫?!」

湖面から岸に這い上がってきたのは別にこの湖で眠っていて、きらを食べた物の尻尾ではなかった。間違いなく彼女の手である。ルッスーリアが引っ張り上げ、きらはよろよろと岸辺に腰掛け咳き込んだ。

「さむ、い」

「そうよね、寒いわよね」

投げ飛ばされた時に水が入ったせいで彼女はずっと咽せている。手早くルッスーリアが隊服のコートを掛け、きらを横抱きにし車へと急いだ。こちらの方へ視線を一切やらないザンザスを最後にきらは暖かくなった車の後部座席で丸まり眠ってしまった。

自分の感情が、心臓が、凍えた湖に沈みゆくのを感じながら。

冷たい悲しい苦しい、指の爪を噛みながら堪えてきたのにその爪はもう無くなってしまいそうだ。無くなって、どうしようもなくて、親指の腹や小指の腹をがぶがぶを噛む夢をきらは見ている。血が滲みそうになるのに彼女はそれをやめられない。痛い、痛いけれども堪えるにはこの痛みがなくては目の前で起きている事に堪えられない。

「随分寝苦しそうね」

ルッスーリアの声がした。
優しい、彼女の大好きなルッスーリアの声だ。体はまだ冷たい。四肢の先が動くのを拒んでいるが、車を降りなくてはならない。きらはのろのろと体を動かして瞳をゆるゆるとあけた事で自分の眉間に皺が酷く寄っていたのに気づく。濡れた服は重い。

「きらちゃん立てる?」

指を挟んだら恐ろしく痛いであろう車の扉の上を支えに立つも彼女は自身の体を支えれなかった。その場に膝から崩れ落ち、両手はコンクリートに叩きつけられ鋭く細かい痛みが襲う。

「う゛ぉおい!」

「あの、大丈夫、ゆっくり、立つから」

そう言ってきらは落ちてきて視界を邪魔する髪を後ろへと追いやった。手は震え、唇に色は無い。立ち上がろうとするにも足に力は入らない。きっとタイツなど破けてしまっているだろう。

「のろのろすんな」

「わ、あっ」

地面に頭をそのままぶつけてしまいそうなきらを引っ張り上げたのはザンザスだった。わざわざ彼女の為に運転席から回ってきたスクアーロはザンザスの肩にあたり、少しばかりよろけてしまう。
突然上へと切り替わった視界にきらはついていけない。とっくに屋敷内に入ったかと思われたがザンザスはずっと彼女を見つめていたのだ。転んだ音を聞いた時からずっとだ。スクアーロがきらの声を聞いて運転席から降りてきて、手を差し伸べようとしていたのもわかっていた。それでも、どうしてかザンザスは彼自ら彼女の腕を引っ張って、屋敷の中へと連れ込んだのである。

きっと彼女が湖に沈み込みもせず、凍えてもいなければザンザスに向かって抵抗した筈だ。
しかし今はきらにそんな意識も気力もない。ただただ横抱きにされて凍える四肢と、その四肢から登ってきそうな恐怖感に怯えている。また一たび、眉間に皺を寄せながら。

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