夢か、現か、 | ナノ
 目の前から突如眠りに落ち消え去った女の体温が、未だ唇と手のひらに残っていた。
 ザワザワと目の前にある森の木々を風が揺らしている。先ほどまで見ていたのは果たして夢だったのだろうか。しかし今も手の中と己の唇に残る体温がそうじゃないと告げていた。
「もったいねえことしてんなー、ガキの頃のオレ」
 自嘲気味にそう漏らすと胸が切なくキリリと痛んだ。
 先ほどまで目の前にいた彼女と対面したであろう自分はただひたすら余裕がなかったように思う。あの頃を思い出すと苦笑ばかり出てしまう。
 好きで好きで、手に入れたくて、でも触れたら壊してしまいそうで怖くて。面倒だと思うくせにあの女のことばかりで頭がいっぱいだった。
 三つ年上の勝気な女。風の国の姫君。随分と面倒な女に惚れてしまったと何度思っただろう。けれどもそれ以上にあの笑顔を一番近くで見ていたい。自分が彼女を笑顔にさせたいと思ってしまった。
 デートの度にどうしたらこの女は喜んでくれるだろうと首を傾げ悩んだものだ。たくさん悩んで恋人一歩手前の関係まで手に入れた。
 あと一歩。自分が勇気を出せばこの女を手にいれることができる。今日こそその女らしい手に触れよう。指を絡ませ、その紅を乗せた艶やかな唇に触れよう。好きだと告げよう。そう決心していた。
 そう思っていたのに、いざその時になると腰が引けてしまった。照れ臭さが勝ってしまった。緩みそうになる頬を必死に引き締めて、三つ年上のこの綺麗な女に見合うようにかっこつけようとぶっきらぼうな態度をとったのが仇となった。
 デートの最中、人通りが多い街中でぶん殴られた。いつぞやの時のように。
 突然のことで驚いたが彼女の涙を見て酷く後悔した。暫し放心状態だったものの、駆け出した彼女の背中を見てすぐに追いかけた。大通りから路地裏に入り、右へ左へ。そしてようやく見つけた彼女を見つけてシカマルの背筋は凍った。ぐったりとその場に崩れ落ちる彼女に頭が真っ白になった。
 懐かしい。そういえばそんなこともあった。
 もう何年も前の記憶の引き出しを開けて、くつりと笑う。
 あの後、とても取り乱して慌ててサクラの元へと彼女を運び、ただの寝不足だと言われた時はその場に尻餅をついて安堵の息を漏らしたのだ。
「アンタも、不安だったんだな……」
 触れるどころか告白すらできやしなかったあの頃。先ほどまでここに確かにいた彼女は泣きはらした目で「どうして」とつぶやいた。
 彼女もまた、自分を欲してくれていたというのに。なぜそのことに気づいてやれなかったのだろう。自分のことでいっぱいいっぱいになって、一番大切にしたかった彼女を泣かせてしまうだなんて。
「ヘタレだよなぁ……」
「ああ、本当にな」

「……いつからそこに?」
「内緒」
 湯飲み茶碗をふたつを間に置いてテマリはすとんと縁側に座った。
 気まずげにボリボリと首の後ろをかきながらむっつりと唇を尖らせてむくれている妻の姿をそっと盗み見る。
(本当に、どこから見てたんだ?)
 つう、とシカマルの背に冷や汗が流れた。
 相手が若かりし頃の彼女とは言え、もし妻がその彼女を別の見知らぬ女だと勘違いしていたらたまったもんじゃない。ただでさえ彼女がいなくなる瞬間、我慢ならず額に口付けてしまっているのだ。
 木に括り付けられて風遁の刑に処されるに違いない。むしろそれで済めば良い方だと思う。

「あ〜、あのよぉ……」
 気まずげにチラチラと彼女の様子を伺いながら情けない声を漏らす。シカマルの視線に気づいているはずだというのに一向にその美しい緑の瞳をこちらに向けようとはしない。チリチリと胸に静電気が起きたときのような痛みが走った。
 正面の森の木々を見つめていた妻の瞳がキラリと光ったように見えてどきりと心臓が嫌な音を立てる。
「……いいのか?」
「は?」
 風が吹いたことによって、彼女の小さく弱々しい声音はかき消されてしまった。首を傾げ、彼女の方へとにじり寄るとカタンと盆に足が当たる。盆をずりっと部屋の方へと押しのけながら、視線は彼女からそらさなかった。
 昔と変わらず凛と美しい一輪の花のような妻の横顔はどこか憂いを帯びている。こんな表情をする彼女は久しぶりに見た気がした。いつだったか、そうだ、初めて喧嘩をしたとき。デートが終わって別れるとき。シカダイを身ごもったと伝えてきたとき。彼女は決まって、寂しい時や心配事があるとき、不安なときはこんな顔をしていた。
 瞼を閉じたかと思えば意を決したように彼女の長い睫毛が持ち上がり、美しい瞳がようやくシカマルを見つめた。その瞳はうっすらと涙の膜が張られゆらゆらと水面のように揺れている。

「やっぱり、若い頃の私の方が、いいのか……?」

 耳を疑った。
「はぁ?」
「……いや、忘れてくれ。馬鹿なことを聞いた」
「いやいや待て待て、落ち着けって」
 苦笑を漏らし立ち去ろうとするテマリの腕を引き、元の位置に座らせる。掴まれた腕をジタバタと暴れさせて逃れようとするので、ついでにもう片方の腕も捕獲し、おとなしくさせた。
 最後の抵抗とでも言うように俯かれるが、シカマルは上半身をかがめて彼女の顔を覗き込んだ。そして目を見開いた。
 真っ赤に染まる頬に、潤んだ瞳。ぽってりと赤く色づく唇は相変わらずむっつりと尖らせている。
(可愛い)
 口元が綻ぶのを隠さずにニヤニヤとだらし無い笑みを浮かべるときっと下から彼女に睨みつけられ、ごちんと頭突きをされた。
「いって!」
「ふん」
 痛む額を摩りながら恨みがましく彼女を見るとぷいっとそっぽを向かれてしまった。だが、耳が赤いのは隠しきれていない。
 こんなことされても可愛いくてたまらない女房にシカマルは参ったと心の中で白旗を振った。
 ぐいっと彼女の腰を引き寄せ、抱き込む。抵抗はない。赤く染まった耳に軽く口付けるとくすぐったそうに彼女は腕の中で身じろぎをひとつした。
「今も昔も、オレはアンタしかいねえよ」
 先ほど、若かりし頃の彼女に伝えた言葉をもう一度囁く。意図して低く、甘く、愛しげに。
 腕の中の彼女が顔を上げ、大きく目を見開いている。綺麗な美しい瞳が溢れてしまいそうと思えるほど。
 そしてくすりと彼女はおかしそうに笑った。
「……そう、だったな」
「ああ、そうだ」
 くつくつと笑い合う。やわらかな春の風がふたりを包み込んだ。

「そういえばさっきの」
 テマリが意地悪く目を細めながら言葉を区切る。
 嫌な予感がした。
「浮気、か?」
 彼女の言葉にぎくりと身体が強張った。
 いやいや何ぎくりとしてんだ。これ浮気じゃねえよな。だって相手は若い頃のテマリだし。心の中で冷や汗をかきながら自分を正当化する。
「何馬鹿なこと言ってんだよ。白昼夢でも見たんじゃねえか?」
「ふふ、そうだな。……私も昔見たよ」
「昔?」
「ああ」
 彼女は懐かしむように微笑みながら、くしゃりとシカマルの髪を撫でる。

「今度は、ちゃんとキスしてくれるよな?」
 瞳を瞑りぐっと唇を噤む彼女の表情に既視感を覚えた。つい先ほどまで、見ていた、若かりし頃の彼女が脳裏に蘇る。
 くすり、と笑みが漏れた。
「……当たり前だ」

 あれは本当に白昼夢だったのだろうか。
 口付けた彼女の唇は彼女の好物の味がした。



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