覚悟がなかったわけではない。
その夜、彼はこれが最後だとでも言うように、しみじみと私を抱いた。
愛の言葉はひとつもなく、ただ互いの熱い吐息を互いの肌に滑らせるだけ。嬌声は全て、彼の唇の中へと飲み込まれる。
熱が篭った視線でただひたすら名前を呼ばれた気がした。ヨシノ、ヨシノって。
いつも彼は名前をあまり呼ばず、視線で私を呼ぶ。特に、今夜みたいな日には。
カサついた唇が額や頬、鼻筋、唇に落ちる。
いつまでも彼の前では女としていたいという気持ちから、こっそり色のついたリップを塗ったそれも彼の舌によって舐めとられてしまう。きっと、絶対、彼はわかってやってる。こんなものをつけなくたって、お前はちゃんと俺の女だって。その目が、その熱すぎる舌が、私言っている。
「もう私、おばさんよ?」
そう冗談交じりにいえば彼はバカみたいに真剣な顔で「俺にとってはいつまでもヨシノさんは大事な女だよ」と言う。
――本当に馬鹿な人。
「……っ」
知らぬうちに涙が溢れた。息子と同じ、けれども誰よりも男らしい真っ黒な瞳が見開かれ、困ったようにくしゃりと細められた。
「わる、」
「何も言わないで」
「…………」
苦虫を噛み潰したような渋い顔に笑いかける。
「悪いと思うなら、絶対に帰ってきてちょうだい」
この人は馬鹿だけど、私はとてもずるい女だ。
できない約束を無理やりにでも彼に取り付けようとしている。でも、そうでもしないと、彼を信じて待たなけらばいけない私が不安で潰れてしまいそうなのだ。
ああだめだ。彼と知り合って、彼と恋仲になって、彼と結婚して、彼との子供の母になって、強くなったと思ったのに。
いくら強くなった気でいても、この男の前ではいつまで経っても弱い女になってしまう。弱い女にされてしまうのだ。今だってそうだ。こうやって自分の弱さを彼のせいにして。
シカクは黙って小さく頷き、私の眦に滲んだ涙をそっと舐めた。
その約束は一方的で酷く曖昧。形だけ取り付けたもの。
そんな曖昧な約束はやはり、果たしてもらえなかった。
終戦後、家に帰ってきたのは泣きそうな顔をした息子ひとりだった。
そんな気はしていた。あの男は嘘を吐かない人だ。やさしすぎるから、できない約束をしようとしない。というか、私にそんな嘘を吐いてもすぐにバレてしまうとわかっているから、きっとしないのだろう。
覚悟はとうに決めていた。あの夜に。それなのに、涙が出てしまうのは私に覚悟が足りなかったからだろうか。
私は初めて、息子の前で涙を流した。
息子は何度も「すまない」と謝りながら私を抱きしめた。お前が悪いわけじゃないのに。言葉でそう伝えたくても、嗚咽しかもれず、ただひたすら首を横に振って、大事な一人息子を、彼の大事な『玉』を掻き抱いた。
その夜、私はひとり、彼の寝間着に包まりながら床についた。
まだ彼の香りが染み付いた寝間着は酷く心を安らかにしてくれる。思い出に浸りながら、一人涙を流す。ああもっと、やさしく接してあげればよかったかしら。でも、口うるさくしても彼はうれしそうににこにこするから、やっぱりあれでよかったのかもしれない。
後悔と共に幸せな日々を振り返る。
そして、ひとつの記憶に辿り着く。
彼が、私に忍を辞めてほしいと言った時のことだ。
「なんでよ」
「いや……ヨシノさんには俺の帰りを家で待っていてほしいからさ……」
照れ臭そうに頬をかく彼。健康的に日に焼けた頬が少し赤らんでいる姿は大の男だとしても可愛いと思ってしまう。それぐらい、彼に惚れてしまっている自分に気づいてむず痒くなったことを今でもよく覚えている。
「ふうん、まあ丁度良いわね。そろそろ産休を取らなきゃって思っていたとこだったの」
「へ?」
ぽりぽりと頬をかいていた手が止まり、彼の瞳がまんまるに見開かれる。
そんな彼の反応にうれしくなってニッと満面の笑みを浮かべれば、彼はうるうるとその瞳を揺らめかせ私を強く抱きしめた。
「そんなこともあったわねえ」
ぎゅっと肩にかけた彼の寝間着代わりにしていた浴衣を自分ごと抱きしめるように腕を回す。
「家で待っててほしいって言ったのは、あなただったくくせに……」
静寂に包まれた宵闇にぽつりと呟く。静かで、とても虚しい気持ちなのに、どこかあたたかかった。
「あなたのほうが、待つ側になっちゃったわね」
彼がすぐそばで笑いながら「悪い悪い」と謝ってくれているような気がした。
「あなたは、私がいないとダメな人だから、浮気しないで、おとなしく将棋でもして待ってなさいよ」
その言葉に、返事はなかった。
けれども、私は虚しくも寂しいとも、思わず、とてもあたたかな気持ちに包まれながら、眠りにつくのであった。
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その夜、彼はこれが最後だとでも言うように、しみじみと私を抱いた。
愛の言葉はひとつもなく、ただ互いの熱い吐息を互いの肌に滑らせるだけ。嬌声は全て、彼の唇の中へと飲み込まれる。
熱が篭った視線でただひたすら名前を呼ばれた気がした。ヨシノ、ヨシノって。
いつも彼は名前をあまり呼ばず、視線で私を呼ぶ。特に、今夜みたいな日には。
カサついた唇が額や頬、鼻筋、唇に落ちる。
いつまでも彼の前では女としていたいという気持ちから、こっそり色のついたリップを塗ったそれも彼の舌によって舐めとられてしまう。きっと、絶対、彼はわかってやってる。こんなものをつけなくたって、お前はちゃんと俺の女だって。その目が、その熱すぎる舌が、私言っている。
「もう私、おばさんよ?」
そう冗談交じりにいえば彼はバカみたいに真剣な顔で「俺にとってはいつまでもヨシノさんは大事な女だよ」と言う。
――本当に馬鹿な人。
「……っ」
知らぬうちに涙が溢れた。息子と同じ、けれども誰よりも男らしい真っ黒な瞳が見開かれ、困ったようにくしゃりと細められた。
「わる、」
「何も言わないで」
「…………」
苦虫を噛み潰したような渋い顔に笑いかける。
「悪いと思うなら、絶対に帰ってきてちょうだい」
この人は馬鹿だけど、私はとてもずるい女だ。
できない約束を無理やりにでも彼に取り付けようとしている。でも、そうでもしないと、彼を信じて待たなけらばいけない私が不安で潰れてしまいそうなのだ。
ああだめだ。彼と知り合って、彼と恋仲になって、彼と結婚して、彼との子供の母になって、強くなったと思ったのに。
いくら強くなった気でいても、この男の前ではいつまで経っても弱い女になってしまう。弱い女にされてしまうのだ。今だってそうだ。こうやって自分の弱さを彼のせいにして。
シカクは黙って小さく頷き、私の眦に滲んだ涙をそっと舐めた。
その約束は一方的で酷く曖昧。形だけ取り付けたもの。
そんな曖昧な約束はやはり、果たしてもらえなかった。
終戦後、家に帰ってきたのは泣きそうな顔をした息子ひとりだった。
そんな気はしていた。あの男は嘘を吐かない人だ。やさしすぎるから、できない約束をしようとしない。というか、私にそんな嘘を吐いてもすぐにバレてしまうとわかっているから、きっとしないのだろう。
覚悟はとうに決めていた。あの夜に。それなのに、涙が出てしまうのは私に覚悟が足りなかったからだろうか。
私は初めて、息子の前で涙を流した。
息子は何度も「すまない」と謝りながら私を抱きしめた。お前が悪いわけじゃないのに。言葉でそう伝えたくても、嗚咽しかもれず、ただひたすら首を横に振って、大事な一人息子を、彼の大事な『玉』を掻き抱いた。
その夜、私はひとり、彼の寝間着に包まりながら床についた。
まだ彼の香りが染み付いた寝間着は酷く心を安らかにしてくれる。思い出に浸りながら、一人涙を流す。ああもっと、やさしく接してあげればよかったかしら。でも、口うるさくしても彼はうれしそうににこにこするから、やっぱりあれでよかったのかもしれない。
後悔と共に幸せな日々を振り返る。
そして、ひとつの記憶に辿り着く。
彼が、私に忍を辞めてほしいと言った時のことだ。
「なんでよ」
「いや……ヨシノさんには俺の帰りを家で待っていてほしいからさ……」
照れ臭そうに頬をかく彼。健康的に日に焼けた頬が少し赤らんでいる姿は大の男だとしても可愛いと思ってしまう。それぐらい、彼に惚れてしまっている自分に気づいてむず痒くなったことを今でもよく覚えている。
「ふうん、まあ丁度良いわね。そろそろ産休を取らなきゃって思っていたとこだったの」
「へ?」
ぽりぽりと頬をかいていた手が止まり、彼の瞳がまんまるに見開かれる。
そんな彼の反応にうれしくなってニッと満面の笑みを浮かべれば、彼はうるうるとその瞳を揺らめかせ私を強く抱きしめた。
「そんなこともあったわねえ」
ぎゅっと肩にかけた彼の寝間着代わりにしていた浴衣を自分ごと抱きしめるように腕を回す。
「家で待っててほしいって言ったのは、あなただったくくせに……」
静寂に包まれた宵闇にぽつりと呟く。静かで、とても虚しい気持ちなのに、どこかあたたかかった。
「あなたのほうが、待つ側になっちゃったわね」
彼がすぐそばで笑いながら「悪い悪い」と謝ってくれているような気がした。
「あなたは、私がいないとダメな人だから、浮気しないで、おとなしく将棋でもして待ってなさいよ」
その言葉に、返事はなかった。
けれども、私は虚しくも寂しいとも、思わず、とてもあたたかな気持ちに包まれながら、眠りにつくのであった。
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