小説 | ナノ
寝ぼけ眼の襲撃
「遊園地、楽しかったね」
「はい! 真琴先輩、本当に恐いの苦手なんですね」
「江ちゃん……その話はなかったことにしてくれないかな……」
「でも、とっても可愛かったですよ?」

 来月から本格的に水泳部の活動が始まるからということで、真琴はひと月半前からお付き合いをしている可愛い彼女に遊園地デートのお誘いをしたのは先週末のことであった。
 ふふふ、と愛らしい笑い声を零しながら江は繋いだ手をぶらりと揺らす。こういう可愛いことする彼女が可愛くてたまらない。今すぐ米神に口づけを送りたい衝動に駆られるが、人気のない田舎道だとしても一応公共の場であるからとなんとか踏みとどまるために視線を江から地面へと落とした。アスファルトに伸びた黒い影が、ふたりが恋人同士だという証のみたいだとふわふわとした頭で思う。
(幸せ惚けって、こういうことを言うんだろうなあ)
 知らぬ間ににやにやと上がってしまう口角を必死に抑えようと口を引き結ぶと、気付けばもう彼女の自宅前までやってきていた。
 真琴の家がある岩鳶駅から電車に乗って二駅先で下車し、十五分程歩いた場所に彼女の自宅はある。日本海の水平線に彼女の瞳に似たまるく赤々とした夕日はとっぷりと半分浸かってしまっており、彼女のご近所の家々からは美味しそうなカレーの匂いが真琴の鼻孔をくすぐった。
 夕飯はまだ食べてない。今晩の夕食は一体なんだろう? そんな疑問が頭に浮かび、少し寂しくなった。
 そうだ。この小さな手を離してしまえば、今日はもうバイバイしなければならない。
 俯き気味な彼女の顔を見やれば、思っていることは同じのようで。切なげに眉間を寄せながら、別れの言葉を言うか言わまいか迷うように、食べてしまえば咥内に甘い果実の風味が広がりそうなピンクのグロスが塗られたこれまた可愛らしい唇をぱくぱく開いたり閉じたりしている。
 その表情にまた、引き裂かれてしまいそうな痛みが真琴の胸を襲った。
 これは、俺から彼女に「今日はありがとう」と別れを切り出さなけらばいけないかもしれない。でも、まだ離れたくない。言いたくなんかない。この小さな手の温もりを、まだ感じていたい。
 刻々と時間が過ぎる度にふたりの間に降りた無言が自分たちを責め立てているような気がした。海に半分浸かっていたはずの夕日は気付けばあともう少しで完全に今日という日から消えてなくなってしまう。

「まこと、せんぱい……」

 先に、言葉を発したのは江であった。
 ああ、もう終わりか。
 ドキリと心臓が飛び跳ね、絶望が真琴を頭からとぷりとぷりと侵略する。大袈裟な表現かもしれないが、今の真琴にとって江と離れるのはそれぐらい辛いことなのだ。
「うん、」
「あの……」
 江は一度つい、と右斜め下に視線を逸らし、たっぷりと数秒開けてから真琴を見上げた。潤んだふたつのルビーに夕日の光が反射してまるで彼女の瞳の中に星が浮かんでいるみたい。今すぐにでも抱きしめてしまいたい。けれども、彼女は一大決心をしたような真剣な眼差しにその欲望はまんまと阻止された。

「今晩、お母さん仕事で帰ってこないんです。真琴先輩が……よかったら……泊まって行きませんか?」

 今のは真琴の欲望が働いて作り出してしまった幻聴、幻覚、幻想ではないだろうかと己を疑った。


 この季節の木々の葉と同じ色をした若葉色の瞳を見開き、ぽかんと間抜けにも開けられた唇を江は不安になりながら潤ませた瞳で凝視する。
 女の子なのに泊まっていきませんかなんて、はしたないと思われたかもしれない。こんな子だったの、と呆れられるかもしれない。
 でも、だって。言い訳ばかりが脳裏に過る。好きな人と、長い時間を共に過ごしたいというのは、駄目なことなのだろうか。一緒にいたいと思ってはいけないのだろうか。
 真琴からの答えが恐くて繋いだ手をぎゅ、と力を込める。後悔が、江の背筋に駆け抜ける。
「すみません我が儘い、」
「うん!」
 今のなしで。そう言おうとした時、真琴から嬉々とした色を含んだ声音が江の言葉にかぶさった。
 驚いて、弾けるように一つに括った髪を揺らして自分よりも頭一つ分高い位置にある彼の顔を見上げれば、頬の高いところが紅葉したもみじみたいに赤く染まっていた。
「俺も、今晩はもうちょっと江ちゃんと一緒にいたい」
 嬉しそうな笑顔を向けられ、ぎゅ、と胸が縮む。彼に心臓を鷲掴みされたみたいな感覚であった。
 涙が零れ落ちてしまいそうなぐらい、うれしい。江もまた、真琴に釣られてやわらかく微笑んだ。
 まるい夕日は海の向こうへ沈み、東の空にはチカチカと明星が煌めいていた。



 江からの思わぬ誘いに、もう今年の運を使い切ってしまったかもしれないと喜び、勢いで泊まると宣言してしまったものの、ちょっぴり真琴は後悔の念を抱いていた。

 あれから、江の自宅に足を踏み入れた後、彼女の作った三ツ星レストランだって目じゃないぐらい美味い夕飯に舌鼓を打った。これが愛か、なんて馬鹿みたいに幸せに浸ってしまう。好きな子が自分のために作ってくれた料理は本当に美味しくてたまらなかった。
 彼女の用意してくれた風呂に入り、彼女の用意してくれた凛の寝間着を着た。少し小さいけど、彼女が用意してくれたものならなんでもよかった。
 リビングでふたり肩を並べテレビを少し見て、彼女の部屋へと移動した。それからだ。それから、真琴は頭を抱える羽目になったのだ。
「ベッドから落ちちゃったら大変なので、先輩は壁際で寝てください」
「え!? 俺、床で十分だよ?」
「だーめーでーすっ! マネージャーとして許しません」
(いやいや駄目って言われても……俺より江ちゃんのほうが危ないって……)
 むっと唇を尖らせてシャツの裾を引かれてしまえば、もうこれ以上駄目だと言えなくなってしまって。
(敵わないなあ……)
 江に気付かれないようにはぁっと息を幸福でキラキラした溜息を吐き出しながら、真琴も江にならってベッドへと寝そべった。
 先ほど江に、落ちたら大変だから壁際で寝ろと言われたけれども、男としてそれはちょっとと思い、せめて一緒に寝るなら江ちゃんが壁際で寝てくれと頼んだ。不思議そうに瞳を丸めながら了承した彼女は寝そべった直後、もう夢の中だ。今日は遊園地へ行ったからか、きっと歩き疲れたのだろう。
 江の穏やかな寝息を耳元で聞いていると、ドギマギと飛び跳ねていた心臓がゆっくりと時間をかけて大人しくいつも通りのテンポを刻み始める。いくら鍛えているとはいえ、一日中歩き回り、可愛い彼女にドキドキしっぱなしだったせいか真琴も疲れていた。気付けばゆるりとした眠気が真琴を襲い、その波にさらわれるように真琴は眠りについた。

 真琴がぱちりと目を覚ましたのは、寝落ちてから何時間が経ったころだったろうか。
 カーテンの引かれた窓の外は未だに暗闇に満ちており、たぶん深夜であろうと予測する。三時間ぐらい熟睡したのだろう。まだ重たい瞼をぱちぱちと瞬きしているとだんだん霞んでいた視界が開けてきた。
 視界が開けてきた時、ぼんやりとまだ微睡みの中にいた思考が目の前の飛び込んできたものによって一気に覚醒される。

(え、ええっ!?)
 超至近距離に愛しい彼女の寝顔がそこにあった。
 昼間はグロスがのせられていた美味しそうな唇はうっすらと開いており、その隙間からすぅすぅと静かな呼吸が繰り返されている。その寝息すらも、至近距離で、真琴の薄い唇を震わせた。
(ど、どうしよう。寝る時は江ちゃん背中向けて寝てたのに)
 寝ている間に寝返りを打ったらしい彼女と顔を付き合わせて眠るということは何気に緊張を催す。バクバクバクバクと室内全体に爆音で自分の心臓の音が鳴り響いているかのような錯覚に陥った。夢か、現か、ぐるりとかきまぜられる脳内に判断が妖しくなる。
 そんな危うい思考回路の中、真琴は彼女から更なる追い討ちをかけられた。
 彼女の寝顔に目を白黒させていた真琴の顔を唐突に彼女はガシリと掴んだのだ。
(江ちゃん!?)
 驚きに声も出ない。出ないというか、彼女を起こしてしまうのは申し訳ないという気持ちも少しはあったのだ。しかしそれ以上に驚きの方が勝っていた。
(これって、なんだか……)

 ――なんだか、キスされるみたいだ。

 自分からは、もう何度も彼女に口づけたことがある。しかし、真琴はまだ一度も江からキスされたことがなかった。カッと身体が急激に熱くなる。
 あと数センチ、数ミリ。もうちょっと。
 極度の緊張状態で真琴は身をカチコチに固めていた。
 彼女の魅惑の唇が自分のそれに重なった時、世界が変わってしまうのではないかと思ってしまう程だ。
 やっぱりこれは夢の中なのではないか。そう再び現実を疑い始め、重たすぎる瞼を瞑ると、唇にやわらかな感触と熱すぎるぐらいの温度が触れる。
 もう夢でも現実でも、否、やっぱり現実が良いけれど。けれど、幸せに満たされた真琴は最早なんでもよかった。今じゃなくても、これからそういった機会がないわけではない。真琴はこれから先、江を手放す気など微塵もないのだから。
 うつらうつらと、その温度を唇に感じ、思考の波をたゆたいながら真琴は再び夢を引き寄せるのであった。
 夢の中でも、現実でも、見る夢はきっと同じだ、と。



140523
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