小説 | ナノ
青い春に起こりがちなあれこれ
 ゆったりと時間をかけて燃える茜色の太陽が西の空へ移動する。それと共に茜空もとぷとぷと波打つ海へと沈みはじめた。顔を出した明星がちかちか瞬くことを合図に、濃藍が東の空から浸食する。そんな時刻。
 部活を終えて、通い慣れた通学路を心地良い気怠さを纏ったふたつの男女の影がゆらりゆらりとアスファルトに揺れている。
 背の高い影、真琴のゆったりとした足取りは、彼が彼女に合わせてくれているのか、はたまた、この限られた時間を惜しんでわざと遅らせているのか。それは当人たちにしかわからぬことだ。

 彼女、松岡江はちらりと隣に並ぶ自分よりも頭一つ分程背の高い男の掌を見た。

(真琴先輩の手、おっきい……お兄ちゃんとは違う手だ)

 節くれ立った大きな手を意識するようになったのはいつのことだろう。真琴に恋心を抱いた時からだろうか。
 もう一年も前のことを思い出すが、うすぼんやりとする記憶に江は首を傾げるばかりで明確な答えは出てこない。
 ただひとつ、彼と想いが通じ合い、こうやってふたりきりの時間を過ごせるようになってから芽生えた欲であることは明確だった。

 こくり、と江の白く小さな喉が鳴る。
(手、繋ぎたいなあ……)
 触れそうで触れない位置にある彼のそれを見つめるが、なかなか決心はつかない。
 緊張で強張った手がしっとりと汗をかいている。海から流れてくる潮風が彼女の湿った手を乾かすみたいに撫でていった。
 全身が、掌が熱い。けれども、潮風が撫でる度に熱は冷め、冷たくも感じる。
 汗ばんだその手が気持ち悪くて、江はスカートの裾でこっそり拭った。
 駅まであと五分。真琴と別れるまで、あと五分。

 ――ああ。今日も、何も出来ずに終わってしまう。



 お弁当でお腹が満たされた昼下がり。
 生徒達は各々仲の良い者と雑談に花を咲かせている。
 そんな教室内の一角に、どんよりと沈んだ空気が満ちていた。まるで晴れやかに広がる青空の中にぽつんとそこだけ分厚い雲が多い、しとしとと雨を降らせているみたいに。

「江、まだ橘先輩と手繋いでないの?」
「……うん」
 千種の言葉がずしりと重くのしかかり、江は机の上に項垂れた。
 昨日の帰り道、結局江は真琴と手を繋ぐことは出来ずに別れた。互いにその日あった楽しかった話や部活の相談、今晩の夕飯についてやら話しているだけで終わってしまったのだ。
 何度かチャレンジして指先をのばすも、寸でのところで引っ込めてしまう臆病な自分が嫌でたまらない。真琴に、視線でサインを送ってみたりもしているつもりだ。けれども、彼はちっとも気付いてくれない。
 真琴も、少しは自分を意識してくれればいいのに。ほんのちょっとの苛立ちを胸に抱える、けれども、口に出す勇気はやっぱり江にはなかった。
「もう付き合ってからだいぶ経つよね?」
「……うん、二ヶ月、ぐらい……」
 この会話、何回目だっけ。

 それは、真琴と付き合ってから何度も千種に尋ねられた質問であった。
 千種もであろうが、江だって、何度交わされたかわからないこの会話にうんざりしている。尋ねられる度に、胸が石みたいになって重くなる。
「いい加減、手ぐらい繋げばいいのにね」
「……そうだね……でも、お互い初めての恋人だから」
 仲良しの千種に真琴のことを悪く言われたような気がしてしまって、江も唇を尖らせながらちょっとした反撃をするが、千種には通じないようだった。
 ふうん、と不思議そうに大きな瞳をまるくした千種は手元の携帯にすぐさま視線を落としてしまう。
 たぶん彼女は、先日話していた意中の彼とメールでもしているのだろうと予測をし、江は昼下がり特有の眠気に誘われて重たい瞼を下ろした。
 繋げるものなら私だって繋ぎたい。彼の大きな手は、触れたらどんな感触をしているのだろうか。私と違って、ざらざらしてるかもしれない。大きくて、私の手なんて簡単に包み込まれてしまうかもしれない。そんな想像をこの二ヶ月の間に何十回としたか最早江にだってわからない。
 手を繋ぐという行為は恋人同士の証でもある。自分たちだけではなく、人の目に晒されるからこそ、自分たちの関係を知らしめるというひとつの独占欲の証でもある。未だにそれが出来ないのは、もしかしたら彼に恋人と思われていないのかもしれない。真琴は実は、自分のことなんか部のマネージャー、ましてや友人の妹ぐらいにしか思っていないのかもしれない。
 憂鬱な考えは良くない方へばかり転がり落ちていく。

「手、繋ぎたいなあ……」
 あたたかな空気に満ちたはるらしいパステルブルーの空へ、江の小さなつぶやきは溶けていった。



「真琴先輩、お待たせしました!」
「ううん、そんなに待ってないよ」
 部活後、男子更衣室、女子更衣室の間にある壁に背を預けて真琴が待っていることが、知らぬ間に当たり前になっていた。
 江が女子更衣室から出て来たのを見た真琴は、コンクリートに預けた背を離し、江に近づくと彼女の手から更衣室の鍵を受け取る。手の中で目的の鍵を見つけると、そのまま真琴は男子更衣室の扉を施錠した。
 その背をなんとも言えない眼差しでじとりと江は見つめる。
(今日こそ、先輩と手、繋ぐんだ)
 一大決心を秘めた胸の前で江はぐっと拳を作った。

 職員室に鍵の返却を終えたふたりは駅へと続く町内を横たわるポプラ並木の道を肩を並べて歩き出した。
 今日もお疲れ様。先輩も、お疲れ様です。互いを労う言葉から他愛もない話がまた始まる。
 けれど、今日ばかりは江も真琴との会話に集中出来ず、ちらちらと真琴の顔色を伺いながら彼の大きな手に全神経が向いていた。
 どのタイミングで触ればいいのだろう。自分から触れるよりも「手、繋ぎたいです」と言葉にあらわしたほうがいいのだろうか。
 悶々と思考をかき混ぜる。
 頭の中で何通りもシュミレートしてみるが、どれが正しく、自然なシチュエーションなのか江にはわからなかった。
 掌を開いたり閉じたり、また握ったり。馬鹿のひとつ覚えみたいにそればかり繰り返しているうちにまた掌に汗をかき始めてしまった。
 スカートの裾でこっそり汗を拭う。
 そうっと隣を歩く真琴の表情をまた盗み見ようと視線を上げた時だ。

 ばちりと閃光が弾けるみたいに真琴のやわらかな新緑色をした瞳とかち合ってしまい、江は一瞬のうちに頬を薔薇色に染めた。
 不思議そうにきょとりと瞳をまるめたそれはとても純粋で、江が今切羽詰まりながら考えているような欲など微塵も感じさせない。
 波の音がうるさい場所だというのに、心臓の音のほうがやけに耳につく。
「江ちゃん、話、聞いてた?」
「あ、えっと、すみません、ぼうっとしちゃって……」
「大丈夫?」
 心配そうに目の上にちょこんと乗った八の字眉が更に下げられる。
 違う。彼にこういう顔をさせたかったんじゃない。
「はい! 明日の体育、憂鬱だなあって」
 思いついた適当だけど本当のことを混ぜた言い分を慌てて言い募れば、心配そうに下がっていた八の字眉いつも通りの位置に戻った。
 ぽかんと、評し抜けた真琴が吹き出すと可笑しそうに笑わいだした。
「あはは、なるほどね。江ちゃん、本当に運動苦手なんだね」
「し、仕方ないじゃないですか! 私の運動神経、全部お兄ちゃんが持ってっちゃったんだもん」
 むつりと膨れたフリをしてそっぽ向くと、ごめんごめんと軽い口調で謝りながら、彼の妹弟である双子たちにするようによしよしと頭を撫でられる。
 上手く誤摩化せたようで江は今日中で安堵の息を吐いた。
 頭の上を滑る大きな手にどきどきする。けれども。

(今は、頭撫でて欲しいんじゃなくて、手、繋ぎたいんだけどなあ)
 はぁ、とひとつ溜息を吐き出し、真琴の顔を覗き込む。
 ゆったりとした足取りをぴたりと止めた真琴は、赤いあめ玉のような江の瞳を見つめ返した。彼女の真意を探ろうと、ただただ見つめ返したのだ。
 その江の胸中を丸裸にしようとしてくる真琴の視線を負けじと見つめ返しながら江はそろそろと指先を真琴のそれへと近づける。

 かさついた指先に一瞬触れる。あ、と思った直後、江はすぐさま手を引っ込めた。
 しかし、引っ込めたはずの手はすぐさまあたたかなものに捕われる。
「……え?」
 かさかさした、大きな手。自身の兄よりも骨張ったゴツい手。自分の手なんか簡単に包みこんでしまう手。その手が、江の手を掴み、焦らすように、砂時計を見つめている時みたいにゆっくりと絡めとられる。
 目を見開き、真琴の若葉色のふたつの眼を見つめると、やさしく細められ、微笑まれた。

(真琴先輩と、手、繋いでる)

 耳障りの良い心音がとくとくと胸を叩く。
 きっと、耳も手も、もちろん顔だって真っ赤になっているだろうと江は思った。今が夕暮れの時でよかったと切に思う。じゃなければ、真琴に真っ赤になっていることをばれてしまうから。
 にんまりと口元を三日月みたいに弧を描いた真琴から視線を逸らす。
 あれは、彼が楽しんでいる時の表情だ。悪戯な、少年みたいな、そんな表情。江が彼と、初めて出会った時のような。
 実は、江がずっと、真琴と手を繋ぎたいと思っていることを最初からばれていたのかもしれない。いやきっと、絶対そうだ。
 それがなんだか悔しくて、繋がれた右手をぶらりと揺らした。
 自分よりも随分と熱い掌を感じながら、江は何も言わず、帰り道の一歩を踏み出す。
 上機嫌な真琴の顔を見ないようにしながら。



140511
title by カカリア様
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