小説 | ナノ
もしも、あの春に還れたとしたら
 春の雨は、冷たい。
 寒い寒い冬を超えて、ようやっとあたたかな日差しに植物たちは芽を出し、若葉を全身に纏って装飾品のようにつぼみを身につけて花を咲かせるのを今か今かと待ち望んでいるというのに。その雨は世界を凍らせる。
 最寄り駅に降り立った真琴は、降りしきる雨にげんなりしながらも手に持っていた水の滴る傘を開いた。文句を言ったって、聞いてくれる人はひとりもいない。
 地元の大学を卒業し、東京の大学に就職して今年で二年目に入る。一年目は大都会での一人暮らしと仕事にとてんやわんやな日々であった。地元にはない高層ビルに、数分置きに来る電車、夜の訪れを知らせないきらびやかなネオン、疲れ切った表情で街を歩くたくさんの人々。どれもこれも、自然に溢れ、穏やかな時が流れる地元とは正反対であった。
 そして今、真琴のトレンチコートを濡らす雨もまた、地元とは全く違っていた。
 今日も、くたびれた。早く帰って、熱いシャワーを浴びてしまおう。そうだ。明日は休みだからビールを開けるのも良いかもしれない。
 都会でのささやかな楽しみを胸に、濡れたアスファルトを内側のすり切れた革靴で歩いた。真琴の住むマンションはすぐそこだ。最寄り駅からマンションの間にあるコンビニでビールを二本とおつまみを少し購入し、また帰路を進む。
 バッグの中から手探りで鍵を探す。ちゃりちゃりと、金属特有の音を手の中で転がしながらオートロックの前まで来た時だ。
 誰かがそこで、うずくまっている。華奢な身体に、スカートの裾から覗く膝小僧を見て、その人物が女性であることを理解した。
 随分不用心だな。
 地元にいたころの真琴ならば、すぐさま「どうしたんですか?」と声をかけていたことだろう。しかし、一年という月日を都会で揉まれてしまった真琴は、そういうものにも嫌なぐらい慣れてしまっていた。
 そう、いつもなら一言も声すらかけずオートロックを解除し、自宅へと向かったであろう。そうできなかったのは、その人物に酷く見覚えがあったからだ。
 解錠しようとオートロックの前へ移動しようとその女性の前を通った時、女性は膝に埋めていた顔をほんの少しだけあげた。ギクリと真琴の背に冷や汗が伝う。
 長い赤い髪に、同じ色をしたふたつの瞳。美しい顔立ちは、自分のよく知っている可愛い後輩のもので、真琴は思わず動きを止めた。
「江ちゃん!?」
「まこと……せんぱい……」
 ゆらりと揺れた赤からぼろりと水が滴る。次から次へと流れ落ちるそれはほんのコンマ数秒で流れているだろうに、真琴にはとてもスローに見えた。

 彼女とは、この東京に来てから何度か一緒に飲んだことがあった。真琴よりも先に東京の大学に進学していたらしい江とこちらへ来てすぐ連絡をとりあって、飲みに誘ったのだ。ちょっとだけ、下心を胸の奥に抱えて。
 一度目と二度目は何もなかった。だが、三度目の時、真琴は江を家に泊めた。成人している男女が一つ屋根の下となれば、そういう空気になるであろう。
 しかし、そうではなくて、ふたりは体の関係を持たなかったのだ。江には付き合っている想いを寄せている男がいたのだ。その男と、あまり上手くいっていないようで、真琴はその相談に乗って、泥酔してしまった彼女の介抱をしただけだった。
 ずっとずっと、学生の頃から真琴は江のことをいいなあと思っていた。女性として。東京に就職した時はチャンスだと思った。学生の頃にはなかった恋愛に対しての勇気がなかったせいで良き部長、良きマネージャーという立ち位置で終わってしまった。それらを拭いさるにはちょうどよい機会だったのだ。
 けれども、真琴が上京してすぐに江へと連絡をとって会ってみれば、彼女には好きな男がいるという。話を聞くと、彼女には見合わない男で苛立ちが募るばかりであった。
 はやく、そんな男は忘れてしまえばいいのに。さっさとフラれて、俺を好きになればいいのに。そうしたら、世界一幸せな女の子にしてあげるのに。
 何度そう思ったことだろうか。何度そう口にして、彼女の華奢な体を力強く抱きしめてしまおうかと思ったかわからない。
 それぐらい、真琴は再会した江に夢中になっていた。

 静止した真琴の胸に江が縋り付く。呆然と立ち尽くしながらも、しっかりと彼女の身体を抱きとめてしまうこの腕が江を好きだと叫んでいた。
 雨の中、傘もささずにここまで来たらしい彼女の身体はずぶぬれで、このままでは風邪をひいてしまう。考えることをストップしていた頭がようやく動きだしてそう思った。
「江ちゃん、このままじゃ風邪ひいちゃうから。とりあえず、俺の部屋行こう?」
 江のすすり泣きは雨音にかき消されていて、一見では泣いているのかどうかもわからない。真琴の胸を濡らすその涙だけが、彼女が泣いていることを真琴に知らせてくれた。



 濡れた衣服を無理矢理脱がせ、風呂場に放り込んだ彼女が真琴のぶかぶかのシャツとハーフパンツを身に纏い真琴が寛いでいた部屋へとやってきた。
 シャワーを浴びている間に落ち着いたのか、もうその頬には涙の影はなく、目元が赤らんでいる程度だ。
 ゆっくりとした動作で「お風呂、ありがとうございました」と呟いて真琴の隣に座り込む江の濡れた頭をタオル越しに撫でてやると、彼女は肩にもたれかかってきた。
 普段、自分が使っているシャンプーの香りが真琴の鼻孔をくすぐり、妙な気分がむくむくと立ち上がる。
 彼女はきっと、片想いしていた相手にフラれたのだろう。言葉がなくても、よくわかった。何年も前から見続けていたからこそ、すぐにわかってしまう。
「落ち着いた?」
「はい……突然押し掛けてすみませんでした」
 謝るぐらいなら、俺のこと好きになってよ。
 勝手にそう言いそうになる口を寸でのところで押しとどめる。
 江が好きな相手にフラれたのなら、もう誰にも遠慮する必要などない。確実な方法で、彼女に自分を好きになってもらえるようアプローチが出来る。
 それ以前に、遠慮する必要などなかったのではないだろうか。遠慮していたと言っても、いったい誰に? 彼女が好意を寄せていた、彼女のことをフッた彼に? それとも、彼女に、だろうか。
 右も左も木々ばかりで道のない道を歩いているような気分であった。どの道を行けば正解なのか、どう切り開けばいいのか、右往左往しながらここに辿り着いてしまった。しかしやっと、やっとひとつの道を見つけた気がする。けもの道を這いつくばり、ようやく、真琴は太陽の光溢れる道を見つけ出すことが出来たのだ。
 彼女の頭に置いていた手を濡れた髪がたれるうなじにするりとまわし、力を込めて自身の方へと引くと、彼女の身体は簡単に自身の胸の中へと倒れ込んできた。反対の腕を彼女の背に回し、やさしくいたわるように抱きしめると、彼女の小さな身体が微かに震えた。
 熱い。脳内がドロドロにとろけてしまいそうだ。
 耳元で心臓がばくばくと脈打つ音を聞きながら江の頭頂部に顎を乗せ、心音を落ち着かせるように大きく息を吐き出した。
「真琴先輩……?」
「大丈夫。何も聞かない。俺が……俺がこうしたいだけなんだ」
 嫌だったら彼女だって全力で抵抗するであろう。しかし、いつまで経っても彼女はそうせず、躾の行き届いたおりこうさんな犬みたいにただ真琴の腕の中で大人しくしていた。
 何分経っただろうか。あるいは、たった数秒だったのかもしれない。真琴はしばらくの間そうして、江が嫌がる素振りを見せないことを確認した上で寝室へと誘った。
 江は、決して嫌がらず、熱を持った眼差しで真琴に腕を引かれるだけであった。

 シーツの海に、そっと江の身体を寝かして、その上に馬乗りになると江は頬を薔薇色に染めて真琴を見上げた。
 その魅惑的な赤に真琴は煽られるままに彼女に口づけを落とす。額に、頬に、眦に、鼻先に、耳に、米神に、そして唇に。彼女がたいせつにしていた恋心の残骸を辿るように唇を動かし、全て真琴が舐めとる。そんな恋なんて、さっさと忘れて、自分に塗り替えてしまいたかった。
 静かな室内にリップ音が木霊する。吐息が熱くて、身体も熱くてたまらなかった。ただキスをしているだけだというのに。
 シャツの裾から手を忍ばせると、江が小さく甘い声を漏らして身を捩った。
 余裕のない手が江の身体をまさぐって、いとしい気持ちが彼女の身体を懸命に愛撫する。指先が心地良い粘膜に埋もれる頃には、好きだという気持ちがいっぱいいっぱいになって、真琴は彼女への好意を全身で伝えようと夢中になっていた。
 江が抵抗しないのは、粉々に砕けてしまった恋心を忘れてしまいたいからだ。冷たい雨の中、びしょぬれになりながらも真琴の元へやってきたのは、きっと、真琴にその恋をぬぐい去って欲しかったからだ。
「んっ、はぁっ、ま、まこ、せんぱ、なんでっ」

 ――なんで、泣いてるの?

 とても、とてもうれしいはずなのに、気付けば真琴の頬には涙が伝っていた。

「あ、れ?」
 激しく打ち付けていた腰の動きを止め、掌で自身の頬に触れてみると指先を水が濡らした。反対の頬に江の白い手が伸びて、触れる。
 彼女に頬を触れられるだけで、彼女のナカにおさめた自身が歓喜に震え、質量がふくらむ。
「ふ、ぁっ」
 大きくなった真琴自身に反応したのか、江が身を震わせるとゆたかな胸がふるりと揺れる。きゅうっ、と自身をしめつけられ、不覚にもはじけそうになるが、奥歯を噛み締め、ぐっと堪えた。
 一瞬離れてしまった江の掌が改めて真琴の頬に触れると、やさしく撫でられる。それだけで気持ち良くて頭がおかしくなってしまいそうだった。
 間接照明に照らされて涙に濡れた赤い宝石がキラキラと輝いている。
 そこでようやく、真琴は江も涙を流していることに気がついた。
「ご、ごめん! 江ちゃん……痛かった? いやだった? 本当にごめん、今、抜くから……」
 慌てて江に謝り、彼女の奥深くを貫いている自身を抜こうと腰を引くと、何故かすらりとした長い足にそれを阻まれてしまう。
 腰に巻き付けられた彼女の足が真琴の腰を押したせいで、より深く繋がり、また吐精感が真琴を襲ったが、それも寸でのところで押しとどめた。
「やっ、やだっ! ぬかないで、おねがい……」
「でも、江ちゃん……」
「ごめんなさい、せんぱい。私、今日先輩を騙しました」
 私、ずるい女なんです。
 くしゃりと美しい顔を歪めて涙を流す江に、真琴はわけがわからずうろたえた。
 騙す、とはどういうことだ。騙された覚えなどこれっぽっちも真琴の記憶には存在しない。いったい彼女はどれのことを言っているのだろう。
 ぽたりと顎から伝った汗が江の胸元を濡らした。
 ひっくひっく、としゃくり声をあげながら江はひたすら真琴に謝罪を漏らし、許しを乞うた。けれども、真琴は身に覚えのない謝罪に首を傾げるばかりで。
「真琴先輩、なにか勘違いしてるみたいです。私も、言わなかったのがいけないんですけど、私、好きだった人にフラれてなんかいません。それ以前に、わた、私がずっと好きだったのは、」
 ばくばくと心臓が暴れている。
 まるで、鏡を見ている気分だった。江の赤い眼が映しているのは、自分が彼女に向けているのは、自身が彼女によく向けている瞳とまるで同じだ。
「ずっとずっと、私が好きなのは、真琴先輩です」
 彼女の告白は、心臓が止まってしまいそうなぐらいの衝撃だった。
 汚いとは思いながらも、傷心中の彼女を慰めようと抱いていたというのに。まさかあんなに憎かった男が自分自身だなんて。
 先ほど彼女は自分を騙していると言ったが、今こそ騙されているのではないかと一瞬疑いが脳裏に駆け巡る。今日はエイプリルフールではないかと今すぐリビングにあるカレンダーを身に裸のまま駆け出してしまいたいぐらいだ。
 けれど、彼女の瞳はまさしく恋する瞳で、嘘偽りなくうつくしく、まっすぐに真琴が好きだと告げている。
「ごめんなさい、ほんとうに、ごめんなさいっ」
 喜びといとしさと先ほどまで持ち合わせていた切なさと虚しさがぐるぐると真琴の胸中で混ざり合い、それらは水分となってふたつの眼から溢れ出した。
 窓を叩く雨音は相変わらずしとしとと静かなようで耳障りだ。
 ああ、そういえば、彼女と再会したあの日も春であったし、雨であった。もし、あの春に還れたとしたら、当時の俺に言ってやりたいと真琴は江の唇に口づけを落としながら思う。
  ごちゃごちゃ考えてないで、さっさと告白してしまえ。彼女にとっ世界で一番見合わない男はお前だ、と。



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title by カカリア
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