二十五年という年月を過ごしてきた家を出ることを決めたのは半年前だ。
私は女の子だし、いずれは家を出ることになることは覚悟していたけれどいざその時になるとジワジワと寂しさが襲う反面、実感があまりわかなかった。高校の頃から外泊をすることがあったせいかもしれない。
私の部屋というものは明日になってもここに残る。
家を出ると言っても、荷物を全部持っていくわけではないから、部屋が空っぽになってしまうなんてことはないのだが、部屋の中を掃除する度になんだかここが私の部屋ではないような気がしてきてしまった。
いつか、お兄ちゃんが結婚して、子供が生まれたらここは私の部屋ではなくお兄ちゃんの子供の部屋になるのかもしれないな、と恋人の影すら匂わせない兄のことを思う。
私はこの家で生まれて、家族に愛され、守られ、育った。私が成長した分だけ、この家も変わってきている。
この間もお風呂が壊れて大騒ぎしたっけ。
ボロくなってきてしまったけれど、私はこの家が大好きで、宝物だ。幼い頃からたくさん撮ってきた写真なんかよりも、ずっとずっとたくさんの思い出が詰まっている。例えそれが、幼い頃お兄ちゃんと喧嘩して作ってしまった柱の小さな傷であろうと、私にとってはかけがえのない物なのだ。
そんな宝物が詰まった宝箱のような家とは、今日でお別れだ。
ガサガサとクローゼットの中にある先日仕舞ったばかりの夏物を引っ張り出していると、ポケットに入れていたスマートフォンが三回振動し、私に着信を知らせる。
クローゼットから少し離れた位置にあるベッドへと持っていた夏服を投げて、スマホの画面を覗くとメールの着信が二件。
ひとつは私がこの家を出る理由の根源と言っても良い人、婚約者である真琴先輩からだった。私の荷物を新居に移すため車で迎えに来てくれる約束をしていたので、たぶんそのことであろう。メールを開けば、案の定一時間後にこちらへ到着する旨が書かれていた。
そしてもうひとつはたった今考えていたお兄ちゃんからだった。
ぶっきらぼうに「今日家出るんだっけ?」とだけ書かれていた。水泳のために大学生から上京した癖に、もしかしたらお兄ちゃんも寂しいと思っているのかもしれない。眉間に皺を寄せて、ちょっと泣きそうになりながらこの文面を作成しているお兄ちゃんを想像すると少しだけ笑えた。
お兄ちゃんに「そうだよ。寂しい?」と返信し、片付け作業に戻る。
片付けも、あと少しで終わりそうだ。
「痛っ」
バサバサッと大きな音を立てて、クローゼットの上の方から昔のアルバムが崩れ落ちてきた。それが私の右肩に当たり、床に落ちる。地味に痛い。
涙目になってそのアルバムを手に取ると、パサリと虫の羽音のような小さな音をたてながら一枚の紙が落ちた。写真だ。
裏返しになっているそれを捲ってみると、岩鳶高校の制服を着た男女が寄り添う姿が映し出されていた。明らかに私と真琴先輩ではない。知らない人、だ。けれど、どことなくその男女は私とお兄ちゃんに似ている気がした。
「あ……!」
目を凝らしてジッと写真を見つめていると、とある人物たちが浮かぶ。私は慌てて一階のリビングにいるであろう母の元へと駆け足で向かった。
「お母さん、お母さん!」
予想通り、母はリビングのソファでテレビを見ながら寛いでいた。溜め撮りしていたドラマでも見ているのだろう。テレビの中の若い男女は手を繋ぎ、幸せそうに笑っていた。
「なあに、江、うるさいわよ。埃が舞うじゃない」
テレビから視線を外すことなく、母はサラリと頬に落ちたお兄ちゃんよりも長い前髪を耳にかけた。私とお兄ちゃんと同じ、ルビーみたいな髪の毛。写真の中のショートヘアーの女の子と一緒の色。それを見て私は確信した。
「これこれ、これ見て!私のアルバムから出て来た!」
母の隣に座り、ずいっと写真を見せるとお母さんは漸くテレビから視線を外し、私の手元を見た。
「……あら、懐かしい」
朗らかに母は微笑み、そう言った。
間違いじゃなかった。
その写真に映っていたのは高校時代の父と母の姿だったのだ。
短く刈られた黒い髪の父とショットカットでお兄ちゃん私の顔そっくりな母は満面の笑みで寄り添い、ピースをしている。
「お父さんとお母さんって、岩鳶出身だったんだね」
「そうよー。江と真琴くんみたいに、先輩後輩だったの。江のところにあったのね、この写真」
上目に母の顔を伺えば母は恋する少女のような表情で写真をジッと見つめていた。全然知らなかった。
父が亡くなったのは私がまだ幼い頃で、父との思い出は少ない。たまに父の話は母や兄から聞いていたけれど、深く聞くのはどうにも躊躇われて、こういう話を聞く機会がなかったのだ。
「へぇ、知らなかった。ふたりは高校からの付き合いだったんだ?」
「まあね。お父さんとお母さん、よく美男美女カップルだって噂されてたのよー?」
「えー、そうなの?」
「なによ江、疑うの?」
「だって想像つかないもん」
顔を見合わせ笑う。
高校からの付き合いで、お兄ちゃんが出来たことがきっかけでめでたく結婚したのだと母は笑いながら話してくれた。両親が美形だとかそういうのは少し照れくさくて、疑うような態度をとってしまったが、確かに写真に映るふたりはどこからどう見ても美男美女でとてもお似合いだと思う。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
真琴先輩とふたりで結婚の報告をしに来た時、母は大喜びしてくれた。真琴先輩は相当緊張していたみたいで、ちょっぴり泣いていた。お兄ちゃんと一緒で、真琴先輩も涙もろい節がある。そんな彼につられて、私も涙ぐんでしまったことは内緒だ。
母の手は、そこかしこがあかぎれでガサガサしている。苦労している手だ。この手で、母は私とお兄ちゃんをひとりで育ててきたのだ。再婚することもなく、亡くなってもなお、父のことを一途に思って。
「私、お母さんみたいになれるかな」
「……なによ、急に」
「お母さんみたいな人になって、お父さんお母さんみたいな素敵な夫婦に、私と真琴先輩もなれるかな」
歳をとって目尻が下がった母の目がきょとんと丸まる。間を置かずして、母はカラカラと笑いながら私の背を痛いぐらい叩いた。
感動的なこと言ったというのに、この母は。すぐ雰囲気をぶち壊す。雰囲気を大切にするロマンチストな遺伝子は父のものであったかと母を見て思う。私は母寄りだけども。
一頻り笑った母は、あたたかい眼差しで微笑み、私の手を取った。少しばかり緊張して背筋をのばす。
「大丈夫よ。私の娘だもの」
にっこりと母は笑った。
この母を、この家に残して出なければいけないことが急に苦しくなり、涙がこぼれた。「あんたは凛と一緒で本当に、泣き虫ね〜」と笑う母の目尻にも涙が滲んでいたが、気丈な母にそれを言えばきっと拗ねてしまうから言わないけれど。
――絶対に幸せになろう、両親のように。
インターホンがなる。壁に掛けられた時計に視線を移す。たぶん、真琴先輩だ。
袖口で涙を拭って、私は玄関へと向かった。
今夜、ベッドの中で両親の話をしよう。ふたりの未来像を、確かなものにするために。
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私は女の子だし、いずれは家を出ることになることは覚悟していたけれどいざその時になるとジワジワと寂しさが襲う反面、実感があまりわかなかった。高校の頃から外泊をすることがあったせいかもしれない。
私の部屋というものは明日になってもここに残る。
家を出ると言っても、荷物を全部持っていくわけではないから、部屋が空っぽになってしまうなんてことはないのだが、部屋の中を掃除する度になんだかここが私の部屋ではないような気がしてきてしまった。
いつか、お兄ちゃんが結婚して、子供が生まれたらここは私の部屋ではなくお兄ちゃんの子供の部屋になるのかもしれないな、と恋人の影すら匂わせない兄のことを思う。
私はこの家で生まれて、家族に愛され、守られ、育った。私が成長した分だけ、この家も変わってきている。
この間もお風呂が壊れて大騒ぎしたっけ。
ボロくなってきてしまったけれど、私はこの家が大好きで、宝物だ。幼い頃からたくさん撮ってきた写真なんかよりも、ずっとずっとたくさんの思い出が詰まっている。例えそれが、幼い頃お兄ちゃんと喧嘩して作ってしまった柱の小さな傷であろうと、私にとってはかけがえのない物なのだ。
そんな宝物が詰まった宝箱のような家とは、今日でお別れだ。
ガサガサとクローゼットの中にある先日仕舞ったばかりの夏物を引っ張り出していると、ポケットに入れていたスマートフォンが三回振動し、私に着信を知らせる。
クローゼットから少し離れた位置にあるベッドへと持っていた夏服を投げて、スマホの画面を覗くとメールの着信が二件。
ひとつは私がこの家を出る理由の根源と言っても良い人、婚約者である真琴先輩からだった。私の荷物を新居に移すため車で迎えに来てくれる約束をしていたので、たぶんそのことであろう。メールを開けば、案の定一時間後にこちらへ到着する旨が書かれていた。
そしてもうひとつはたった今考えていたお兄ちゃんからだった。
ぶっきらぼうに「今日家出るんだっけ?」とだけ書かれていた。水泳のために大学生から上京した癖に、もしかしたらお兄ちゃんも寂しいと思っているのかもしれない。眉間に皺を寄せて、ちょっと泣きそうになりながらこの文面を作成しているお兄ちゃんを想像すると少しだけ笑えた。
お兄ちゃんに「そうだよ。寂しい?」と返信し、片付け作業に戻る。
片付けも、あと少しで終わりそうだ。
「痛っ」
バサバサッと大きな音を立てて、クローゼットの上の方から昔のアルバムが崩れ落ちてきた。それが私の右肩に当たり、床に落ちる。地味に痛い。
涙目になってそのアルバムを手に取ると、パサリと虫の羽音のような小さな音をたてながら一枚の紙が落ちた。写真だ。
裏返しになっているそれを捲ってみると、岩鳶高校の制服を着た男女が寄り添う姿が映し出されていた。明らかに私と真琴先輩ではない。知らない人、だ。けれど、どことなくその男女は私とお兄ちゃんに似ている気がした。
「あ……!」
目を凝らしてジッと写真を見つめていると、とある人物たちが浮かぶ。私は慌てて一階のリビングにいるであろう母の元へと駆け足で向かった。
「お母さん、お母さん!」
予想通り、母はリビングのソファでテレビを見ながら寛いでいた。溜め撮りしていたドラマでも見ているのだろう。テレビの中の若い男女は手を繋ぎ、幸せそうに笑っていた。
「なあに、江、うるさいわよ。埃が舞うじゃない」
テレビから視線を外すことなく、母はサラリと頬に落ちたお兄ちゃんよりも長い前髪を耳にかけた。私とお兄ちゃんと同じ、ルビーみたいな髪の毛。写真の中のショートヘアーの女の子と一緒の色。それを見て私は確信した。
「これこれ、これ見て!私のアルバムから出て来た!」
母の隣に座り、ずいっと写真を見せるとお母さんは漸くテレビから視線を外し、私の手元を見た。
「……あら、懐かしい」
朗らかに母は微笑み、そう言った。
間違いじゃなかった。
その写真に映っていたのは高校時代の父と母の姿だったのだ。
短く刈られた黒い髪の父とショットカットでお兄ちゃん私の顔そっくりな母は満面の笑みで寄り添い、ピースをしている。
「お父さんとお母さんって、岩鳶出身だったんだね」
「そうよー。江と真琴くんみたいに、先輩後輩だったの。江のところにあったのね、この写真」
上目に母の顔を伺えば母は恋する少女のような表情で写真をジッと見つめていた。全然知らなかった。
父が亡くなったのは私がまだ幼い頃で、父との思い出は少ない。たまに父の話は母や兄から聞いていたけれど、深く聞くのはどうにも躊躇われて、こういう話を聞く機会がなかったのだ。
「へぇ、知らなかった。ふたりは高校からの付き合いだったんだ?」
「まあね。お父さんとお母さん、よく美男美女カップルだって噂されてたのよー?」
「えー、そうなの?」
「なによ江、疑うの?」
「だって想像つかないもん」
顔を見合わせ笑う。
高校からの付き合いで、お兄ちゃんが出来たことがきっかけでめでたく結婚したのだと母は笑いながら話してくれた。両親が美形だとかそういうのは少し照れくさくて、疑うような態度をとってしまったが、確かに写真に映るふたりはどこからどう見ても美男美女でとてもお似合いだと思う。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
真琴先輩とふたりで結婚の報告をしに来た時、母は大喜びしてくれた。真琴先輩は相当緊張していたみたいで、ちょっぴり泣いていた。お兄ちゃんと一緒で、真琴先輩も涙もろい節がある。そんな彼につられて、私も涙ぐんでしまったことは内緒だ。
母の手は、そこかしこがあかぎれでガサガサしている。苦労している手だ。この手で、母は私とお兄ちゃんをひとりで育ててきたのだ。再婚することもなく、亡くなってもなお、父のことを一途に思って。
「私、お母さんみたいになれるかな」
「……なによ、急に」
「お母さんみたいな人になって、お父さんお母さんみたいな素敵な夫婦に、私と真琴先輩もなれるかな」
歳をとって目尻が下がった母の目がきょとんと丸まる。間を置かずして、母はカラカラと笑いながら私の背を痛いぐらい叩いた。
感動的なこと言ったというのに、この母は。すぐ雰囲気をぶち壊す。雰囲気を大切にするロマンチストな遺伝子は父のものであったかと母を見て思う。私は母寄りだけども。
一頻り笑った母は、あたたかい眼差しで微笑み、私の手を取った。少しばかり緊張して背筋をのばす。
「大丈夫よ。私の娘だもの」
にっこりと母は笑った。
この母を、この家に残して出なければいけないことが急に苦しくなり、涙がこぼれた。「あんたは凛と一緒で本当に、泣き虫ね〜」と笑う母の目尻にも涙が滲んでいたが、気丈な母にそれを言えばきっと拗ねてしまうから言わないけれど。
――絶対に幸せになろう、両親のように。
インターホンがなる。壁に掛けられた時計に視線を移す。たぶん、真琴先輩だ。
袖口で涙を拭って、私は玄関へと向かった。
今夜、ベッドの中で両親の話をしよう。ふたりの未来像を、確かなものにするために。
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