小説 | ナノ
此の心地良さを手放すなど、もう、
 東の空に宵の闇が迫り来る時刻。西の空の茜色と東の空の濃藍がちょうど交わる辺りが綺麗なグラデーションとなって空の中央を彩っている頃であろう。
 水泳部の練習は一時間程前に終わっていた。いつもなら部員一同揃って帰路につくことが当たり前なのだが、今日は皆各々用事があるようで珍しくバラバラに帰宅していった。
 江は特に用事もなかったため、ゆったりとマネージャー業をこなしていたらこんな時間になってしまっていた。少しばかり、寂しさに襲われる。慣れとは恐ろしいものだ。
 男子更衣室にはもう誰も残っていないであろう。大概、部活後はみんなが男子更衣室で着替えているため、江は女子更衣室に控え、そこで雑務をこなすことにしていた。
 隣にある男子更衣室には物音ひとつ聞こえてこない。
 時間も遅いし、早く着替えて帰ろう。
 江は着込んでいたジャージを脱ぎ捨て、鞄の近くにまとめておいた制服を慣れた手つきで着込んでいく。スカート、カッターシャツ、そして最後に一年生の証である赤い水玉のリボンを手に取った。
 もう遅い時刻だし、後は帰るだけなのだから、リボンつけなくても良いかな。
 季節も7月に入り、随分と暑い。江は律儀に一番上までとめたシャツのボタンを二個開けた。この時間帯なら知り合いに見られることはないだろうし、口煩い教師たちも職員室に籠っているであろう。
 江は荷物を手にとり、女子更衣室の扉を開けた。すると、そこに思わぬ人の姿があった。

「――真琴先輩?」

 扉を開けたすぐ傍の壁に寄りかかるように、その人の姿があった。真琴は、預けていた壁に背を離すと、にこりとやさしい笑みをこぼす。

「コウちゃん、お疲れ様」

 江はぱちくりと丸い茜色の瞳を瞬かせる。まさか、待ってくれている人がいるとは思ってもいなかった。

「お疲れ様です。真琴先輩、今日用事なかったんですか?」
「うん。みんな先に帰っちゃったけど、女子更衣室の明かり消えてなかったから。こんな時間
に女の子をひとりで帰すのも危ないしね」

 目尻をやわらかく下げながら真琴は言った。真琴らしいな、と江は思う。
 胸の奥底に押し隠していた寂しさが埋められていく。実の兄である凛によって空けられてしまった寂しさを。
 自身の兄である凛も、きっと真琴と同じことをするであろう。言葉や態度は正反対であるが、行動は間違いなく『お兄ちゃん』だ。
 小学校卒業を期にオーストラリアへ留学してしまった凛。帰国してからも、全寮制の高校へ入学してしまったため、会う機会はほぼ無いに等しい。土日も部活があるため、めったなことがないと凛は自宅に帰ってこないのだ。それが江はとても寂しかった。
 しかし、水泳部に入り、真琴と再会してからはその寂しさもだいぶ薄れている。真琴自身、『お兄ちゃん』であるため、凛と重ねてしまう部分があるのだ。だが、真琴の場合、『お兄ちゃん』っぽいというだけでない感情が微かに芽生えていた。

「……コウちゃん、リボンどうしたの?」
「え? ……ああ、暑いし、もう帰るだけなのでいいかなと思って」

 真琴に指摘された胸元を反射的に江は右手で抑えた。普段の着こなしと違うせいか、少し気恥ずかしい。江の頬に熱が孕む。
 ちらりと視線だけを上にあげて真琴の表情を伺うと、何故か眉間に皺を寄せていた。不思議に思い、首を傾げる。

「そのままで帰るの?」
「はい。そのつもりですけど……」

 真琴の真意が読めなく、言葉尻が小さくなる。
 不安げに真琴の新緑を思わせる若葉色の瞳を見つめていると、『お兄ちゃん』と重ねていた目つきと全く異なったそれに目を見開いた。

「リボンはちゃんとつけなきゃ駄目だよ。コウちゃんは女の子なんだから、そんなに肌を晒しちゃ駄目」
「でも、」
「俺だから、いいとでも思ってるの?」

 不意に、腕を掴まれ、引き寄せられる。聴こえた声は随分と近くて、吐息さえも鼓膜を震わす。
 急展開すぎるこの状況に、江は茜色の瞳を揺らした。この人は『お兄ちゃん』ではない。
 ――『男の人』だ。

「ベタだけど、男は狼なんだから、気をつけなきゃ」
「は、はい……」
「うん、いいこ」

 身長差があるため、普段ならだいぶ遠い位置にある真琴の顔があと数センチ近づけば唇が触れてしまう距離にある。鼓動が速くなる。
 彼の大きな手に頭をやさしく撫でられ、思わず江は目を細めた。
 真琴と再会して、寂しさ故にぽっかりと空いてしまった心が埋められる。だがそれは、『お兄ちゃん』としてではなく、もうひとつの感情が江の胸を許容範囲以上に満たしてくれた。
 もう、駄目だ、と思った時には、彼の首に江は腕を回していた。

130816
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title by群青三メートル
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