お帰りハニー (社会人設定) 「…ふはぁ。」 仕事帰り。 俺はヘトヘトになった重い体を引きずりながら帰路を歩いていた。時刻は、終電で帰ってきたから、もう1時を回っているだろう。月は高く昇り、疲れきった俺を眩しく照らしている。 いつも通い慣れている帰路が何だか途方もない道のりに感じる。あぁ、あと家まで何メートルだろうか。足はぐだぐだと歩くのを拒みはじめ、手に持っている重たいかばんは余計に重みを増したように思えてくる。 真上ではそんな俺を悲劇のヒーローに仕立てあげるかの様に月が明るくスポットライトを当ててくる。俺はそんな自分の状況に大きな溜息をついた。 「はぁぁああー…」 今年の春、念願の小学校教師になれた。 こんな中途半端な俺でも子供は好きだったし、そんな子供達に何か教える事も嫌いだった訳ではなかったから、この『小学校教師』という職についても高3年から徐々に興味を持つ事が出来ていた。 それから、一浪しながらも某国公立大学に入学する事が何とかでき、3月に晴れて就任する学校が決まった。 そして、今の状況、という訳だ。 そりゃ、確かに元々自分が成りたくてなった仕事な訳だし。楽しくないはずがない。まだ幼い子供たちの考えに驚かせられる事も多々あり、充分と言っていい程充実した毎日を送っている。 しかし… 「……はぁ、」 また、口からは大きな溜息がでた。 じゃり、という自分の足の裏と道端に転がっている砂が擦れる音が聞こえる。俺はそんな微かな音さえも聞き取れる道の上でパカリと携帯を取り出した。パッとくディスプレイが明るい光で俺を照らし出した。そのままピッピッという無機質な電子音が静かな道上に響く。 そこに、ディスプレイに映し出されている文字、それは。 「…空……会いた………いよ…」 ―――――充実した日々。 聞こえはいいかもしれない。 でもそれは所詮、"聞こえ"だけのことだ。現実はそんなに甘くはない。全く、と言っていい程に。 充実した日々とは、裏を返せば忙しい日々だ。ただ、今出されている仕事をこなして、こなして、こなすだけの多忙な日々。それはこの"教師"という仕事についた以上仕方のないことなのかもしれない。 でも足りないのだ。 温もりが。 あんなに毎日一緒にいた温もりが。 恋しくて堪らないのだ。 「会いたい、よっ……」 大学時代は忙しくても何とか時間を見つけて会うことが出来た。けれど、お互い社会人になった今、見つけたい時間は泡となり冷たい世の中に消えていくばかり。もう一ヶ月以上も会っていない気がする。 電話をしてもでなくて、電話をされてもでれなくて。 メールをしても返ってくるのが遅くて短くて、メールをされても疲れきった体では返信ができなくて。 あんなに大好きだった温もりが、声が、今はなんだか遥か昔のものに感じられる。 感じたいのに感じられない。 触れたいのに触れられない。 こんなものがこんなに辛いなんて知らなかった。 「…空………」 白い光の中に浮かび上がる愛おしい名前。 会いたい、今すぐに、会いたい。 そんな思いが月に届いたのか、どうなのかは解らないが、周りの風景はいつの間にかに見慣れた風景となり、温もりに飢えた俺に幻想を見せた。 「……………そ、んな。」 俺は、ぎゅうっと自分の頬を強く捻った。捻られた頬は赤く腫れ、じぃんという鈍い痛みを感じた。 これは夢ではない、じゃあ――――? 自分の住んでいる古びたアパートの前に佇む一つの人影。 その人影は呆然と立ち尽くしている俺に向かって手を振りながら、俺の名前を口にした。 「真一!! お帰り!!」 「………」 月は優しく照らしてくれた。 「……空………?」 アパートの前の人影はあれ程会いたくて、会いたくて、しょうがなかった人物。 空介だった。 「なんで、どうして…こんなとこに…」 「なんでって、そんなの当たり前じゃん、真一に会いにきたんだよ!」 「そんな、…」 いつの間に足の怠さは抜けていて、かばんも軽く感じるようになっていた。 「これは、夢じゃないよな?」 「夢なんかなもんか! 僕は本物の空介だよ、天才美容師、の卵の空介だよ。」 一ヶ月ぶりの空介はどことなく格好よくなっていて、俺はそんな空介を見て、少し、目尻を熱くさせた。 「ほんとか? 本当に、夢じゃないんだな?」 視界がぼんやりと霞んだ。 「本当だよ、だって、ほら。」 ぎゅうと、大好きな温もりが俺を包んだ。 「…っ!! く、くう…」 ぎゅうと俺も背中に手を回した。 「会いたくて、仕方がなかった…空…」 「あははっ、何、デレ気? 真一。」 耳元では、大好きな少し高い声が聞こえる。 「うっさい。ばか。」 空介のいつもはムカつく冗談さえも今は俺を安心させるものになっている。 「じょーだん、じょーだん。僕も会いたくて仕方なかった。死ぬかと思ったよ。」 「大袈裟な。」 「本当だよー、だからこうやって会いに来たんじゃないか。死なないように。」 「ふぅん。」 俺の素っ気ない返事に空介ははは、と軽く笑いながら俺を抱きしめていた腕を解いた。解かれた背中はなんだか少し寂しい。 もっと、ずっと空介を感じていたい。 そんな俺を見てか、空介はポンポンと俺の頭を大きな手で撫でてきた。 「まぁ、あともう一つあるんだけどね。」 「……? 何が?」 月に照らされながら空介は柔らかい笑みを俺に向けた。 月明かりにより大人びて見える空介の表情は俺の鼓動を早くさせた。 「くう…」 中学生の時は俺より小さかった空介はもう俺よりか大きくなっている。 身長も、手も、足も。 「ねぇ、真一。」 ドキン、と心臓は大きく跳ね上がる。 「もう、君が、淋しい思いをしないようにさ。」 優しい春の香りが俺達を包む。 新しい風が吹きはじめた。 緑の新芽はこれからの未来の為にすくすくと育っていこうとしている。 俺らももう進まなくちゃいけないのかもしれない。 「一緒に住もう?」 空介からの幸せな言葉。 俺の頬を温いものがつぅ、と流れ落ちた。 「…あぁ…」 これからは、温もりが足りなくてもくじけないように。 「ははっ、お帰り、真一。」 ずっと、ずっと、ずっとずっと 一緒にいよう。 End |