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▼ trip「壁ドンの被害に遭う」


ひまだ……。
何度目か分からぬほど、それを呟いた智雅はそのまま体の力を抜き、ベッドに倒れ込んだ。ふわりと体を包み込む毛布の柔らかさにしばし癒されるも、退屈を紛らわせることはできない。右、左と転がっていると、一人で煙草を嗜んでいた山田から注意を受ける。

「あー、だめ。暇」

一体どういう成り行きか、とある軍艦に客人として迎えられた智雅、葵、山田一行と、偶然にも合流を果たしたさくら、ジャック。彼らは広々とした一室を借りることに成功していた。しかしピリピリと張り詰めた艦内を出歩くわけにもいかず部屋のなかで退屈な時間を過ごしていた。
なぜ迎え入れられたのか、はっきりとした理由は不明だ。だが、聞き耳を立てていた智雅の見立てでは恐らく、智雅たちを迎え入れた軍人たちが誰かと勘違いをしているだろうというところまで掴めた。勘違いをしているのは恐らく上層部の人間。しかし少年少女をふくむ愉快な一行を誰と勘違いをするのか甚だ疑問ではあるが。

「もー、智雅くん落ち着いて」

重たいため息を吐く葵もまた、退屈をもてあましていた。
そんななか、毛布の上からさくらをみる。さくらは部屋に備え付けられている丸い小窓から波を眺めていた。その近くでジャックはアクビをこぼす。

「さくらちゃーん。船は珍しい?」
「えっ。ああ、うん。あんまり乗ったことなくて。こんなに近く波を見るのもはじめて」

頬を桜色に染めて、すこし気恥ずかしそうに語るさくらは智雅に向けていた瞳をすぐに小窓の向こう側に向けてしまう。
「そっかー」と上の空で両腕を後頭部にまわし、天井を眺める智雅はそれから数十秒。体を起こしてふたたびさくらを見た。さくらは背を向け、相変わらず波に釘付けであった。

「さくらちゃん、俺を置いて外ばっか見ないで。ねえ」

ニヤリと口の端を持ち上げ、笑う智雅の目は肉食動物のような眼光だ。ベッドから起き上がり、ゆっくりとさくらに近付く。その智雅を見送った葵はまたしてもため息を吐いた。

「えっ。だって、海……。綺麗だよ?」

智雅に苦手意識をもつゆえか、さくらは振り返って智雅と目を合わせることなくコツンと指先を小窓に向けた。

「一人でそっぽ向いたりしないでさ。ほら。俺を見て」

智雅の腕が視界の端に。音をたてて智雅の手が壁につく。智雅の両手が檻のようにさくらをとらえた。いわゆる壁ドンだが、さくらはそんなこと知っているわけもない。苦手な人物がすぐ真後ろにいることに肩を震わせた。どうリアクションすればいいのか分からず固まってしまう。自発的に動くことができないさくらをいいことに、智雅はさくらの脇腹に左手を差し入れ、胴を掴むと対面するように優しく誘導した。素直に誘導されたさくらの表情は困惑一色だ。
さくらの胴に触れていた手はゆっくりと上がり、さくらの長い髪を撫でた。
まっすぐ、さくらを見つめる智雅の瞳は青く、キラキラと光る金髪ははらりと智雅に合わせて動く。

海よりも青く、深く、輝いて光を反射する瞳に、ふいにさくらの目は奪われる。笑っているのか、美しく円を描いているはずのそれは細められてしまっているが、その色の深さは相変わらず。海よりも空よりも、きっと宝石よりも彼の瞳は嬉々として輝きをやめない。奥深くに眠る暗い色とそれ以上に魅せる明るい色をした明瞭な青は清々しい。
海を見ているのも面白かったが、彼の瞳を眺めているのもまた面白い。

智雅はさくらが自分を見ていることに満足しているようで、いっそう笑みを深くした。髪を撫でていた指はつつ、と顔の輪郭を伝って顎に留まる。もっと、というように智雅はさくらの顎を少しだけ上に誘導し、壁についていた手は肘になる。
鼻と鼻が触れてしまうほど近くなって、さくらははたと我に返った。

「ちっ、ち、ちちち」
「どうしたのー?」
「ち近くないかな!」
「そうかな? ほらほら、俺に釘付けになっときなって」
「近いよ、なんか近いよっ!?」
「そんなことないって。俺もさくらちゃんも、お互いによく見えるでしょ?」
「あっ、ちょっと、智雅くん、う、動かないで」
「んー?」
「くっついちゃう、くっついちゃうぅぅ」

すこしでも動けば、鼻どころか唇同士が触れてしまう。
たとえさくらが何も知らない純粋無垢な13才の少女でも、それくらいは分かっている。わきまえている。好きな人のために、心の底からいとおしいと想う人のために、大切にしておかなければならないその唇。
さくらは慌てて周囲を見渡した。ここにはさくらと智雅の二人だけしかいない、なんてことはない。旅の同行者が三人いる。助けを求めようとした。まずはじめにガンを飛ばしたのはさくらにとってもっとも身近にいるジャックだ。しかしジャックはニヤニヤとこちらを見ているだけでまったく微動だにしないではないか。どれだけ念を込めても、それは相変わらず。さくらは数分眼光を光らせたが、変化はなかったので諦めた。
そして次に葵だ。同じく個性豊かな同行者の被害に遭うことが多数ある数少ない友達。先輩のような、姉のような友達である彼女に助けを求める。が、やはり。葵は「なんか大変そうだな」と他人事を呟くではないか。目を合わせた状態で。さくらはショックだった。しかしめげない。無理を承知の上で次に山田をみた。山田は目を合わせてもくれなかった。

よそ見をしていたさくらの顎をくい、と動かして、智雅の顔は至近距離に。

「だぁーいじょうぶだよ」

芯を刺激するような優しく、甘く、蕩けるような声。
さくらの本能に訴えているのか、顔が火照ってしまう。その正体はさくらには分からない。なぜ火照っているのか、などと聞かれたらさくらだって首をかしげる。
だが。
とにかく。
その声はさくらにとって要領オーバーなもので。

「ああああああああああっ!」
「あだっ!」

至近距離でさくらは屈み込み、そしてバネのようにはね上がった。さくらの頭は智雅の顎に激突。智雅は後退した。口から血を流している様を見るに、舌を噛んだようだ。それも不老不死のおかげですぐに完治したものの、流れた血をおさめることなく、口からだらりと流していた。

「んんん!? 智雅くん大丈夫?」
「いったー」

驚いた葵が駆け寄る。血を拭う智雅の肩を抱えながら葵はさくらに「酷いよさくらちゃん!」と言った。さくらは「え」と膠着する。

「うちの智雅くんをこんなにも汚しておいて!」
「えっ」
「なんだとサクラ! 俺がいるというのに! 俺は遊びだったのか!」
「ええ!? ジャック!?」
「ちょっと待ってさくらちゃん、その人は!? うちの智雅くんをこんなに汚しておいて、その人誰!?」
「えっちょ、葵ちゃん!」
「葵ちゃん……俺……、俺……っ!」
「いいの、智雅くん……。よしよし」
「わ、わたしがわるいの!?」

修羅場だ。茶番だ。
横では相方が「どういうことだ! あいつは誰なんだ!」と訴えてくる。正面では葵が智雅をなだめ、智雅が必死で泣き付いている。涙を流していないようだが。
さくらは頼みの綱だ。もう一度山田を見た。ついでに「や、山田さんんんっ」と助けを求めたが「知るか」と一蹴された。断崖絶壁の崖から突き落とされた気持ちだった。

「よ、よし、智雅くん! かもん!」

ばっ、と勢いよく両手を広げてさくらは迎え入れる準備をした。
刹那。
全身に衝撃が走る。智雅が一瞬で体当たりしてきたのだ。蛙が潰れたような醜い声をあげてさくらは床に叩き伏せられる。

「あっはっはっは!」
「ひぃっ! ひゃ、ふふっ、あははははっ」
「どうだどうだー!」
「はっ、はははっ、ひっ、や、やめ、やめて、ふははっ!」
「よいではないか、よいではないかー!」

突撃した智雅は押し倒したさくらの腹に手を這わせるとそのまま、くすぐった。堪えきれず笑うさくらと、満面の笑みで笑いだす智雅。容赦のないこちょこちょがさくらを襲った。
どさくさに紛れて智雅がさくらの胸に触れて「五年後どうなるかな、楽しみ」と呟いたが、それには誰も触れなかった。


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