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▼ 壁ドン

   
「……壁ドンって、壁を叩くことじゃないの?」

「ノンノン。そっちもあるけど、俺が言ってるのは違う方なんだなー」

「はあ」


ソラは談話室でチトセに捕まった。休憩がてらに一人でコーヒー牛乳を買い、そこに砂糖を投下している最中のことである。
壁ドン。ソラも聞いたことがある。というかルイトによくされている。「うるさい!」と隣の部屋から怒鳴られ、壁をドンと叩かれている。……しかし、チトセの言う「壁ドン」とは、ソラの想像している壁ドンとは違うようだ。


「こうすることだよ。ちょっと見てろ」


あきれた顔をして隣に座っているラカールの手を引いてチトセは席を立った。劇的に甘くなったコーヒー牛乳を飲みながらソラは目で追う。
チトセは困惑するラカールを放っておいて、意気揚々と部屋の隅まで行った。「壁ドン? するの? いま!?」とラカールは困惑しながら猛抗議。しかしチトセは聞く耳を持たない。そしてチトセはラカールを壁側を背にして自分と向き合わせた。


「ちょ、ちょっと……、チトセ……ほ、本気? あの、冗談だよね? え、なんで真顔なの? な、なんで押すのかな? ほら、ソラだけじゃなくて、みんなも見てるよ? 冷静になろ――」


ラカールは羞恥心から顔を赤くするが、大丈夫。いつものバカップルだ。なにも今更恥じらうことなどない。
ソラはひそかにそう呟いて彼らを見守る。ラカールを壁に追いつめるチトセのやりたいことは分かっている。そしてソラの描いた未来通りに、チトセの腕はラカールの顔の横に突き付けられ、互いに熱っぽい視線を絡み合わせた。壁とチトセに閉じ込められたラカールの息をチトセが攫う。談話室にはソラ以外の人物もいるというのに遠慮のない愛情表現である。


「ああ、壁ドンってそれね。なるほど」


ソラはまた、コーヒー牛乳を口にした。

いくらソラでも、まだ想いを伝えきっていない想い人をいきなり襲おうとは思っていない。胸を締め付けるほどの焦りがあっても、さすがに常識くらいはわきまえる。「好きです」を言葉で示さず態度で示すソラは、今度こそイヨに片想いが伝わることを信じて壁ドンを実行することを決意した。

その日、ソラはイヨをデートへ誘った。もっとも、イヨの方は「デート」というより「友達と遊びに行く」に近いだろう。正午に合流し、そのままバイキンングへ直行。甘党と大食いが食事をした。とくにプランのなかったソラはイヨの「街を歩きたい」という希望に応えることにした。
革命組織が近年活発化する能力者側では見られない異能者と無能者の共存。行きかう人々は当然のように能力、魔術、召喚術、封術を使う。
イヨはその一つ一つを不思議そうに、興味深くみている。


「イヨさん。そんなに共存が珍しいならいいところに連れて行ってあげようか」

「む?」


イヨの手をつかんで、ソラは組織のビルよりも大きな建物へ一直線に街中を進んでいった。その建物の中に入り、受付で金を支払い、奥に進む。そこがどこなのか、なんなのか、イヨもすぐにわかった。


「す、水族館……!」

「うん。見てイヨさん。この水槽」


ソラが指さす先にある水槽には、たくさんの小魚たちが踊るように泳いでいた。色とりどりの魚たちが光る。水は水中で色の波をつくり、七色に輝く。まるで宝石のような水槽にイヨは釘付けになった。


「この水は魔術で七色に光って見えるんだ。んで、この水そのものは召喚師が召喚した特性の水。魚も長生きするし人間の視覚を楽しませる細工をしてる。魚には害がないよ」

「ソラの暮らす世界は素敵だな……」

「……」


きっとイヨ本人は気が付いていないだろう。彼女が優しく微笑んでいることに。幸せそうに、楽しそうに微笑んでいる。そこに少しの寂しさが差しているその笑顔は何にたとえようもない美しさがあった。水槽なんかとは比べ物にならない笑顔にソラの目は離せなくなる。


(オレ、こんなにもイヨさんが好きだったんだ)


瞬きすることすら忘れてしまう。一瞬が愛おしい。
彼女のすべてを愛している。
――彼女が、自分のものではないことが悔しい。
まだ誰のものでもない彼女を自分だけのものにできたらどれだけ満たされることか。
こんなにも自分は彼女を欲しているのに、彼女はそれに気が付かない。

ソラの行動は衝動的だ。
チトセに悪知恵を吹き込まれたからではない。
水槽を壁に、イヨを腕の檻に閉じ込めてしまう。


「ソラ?」


どっと魚が逃げる。平日の誰もいない水族館はソラとイヨだけのもの。壁と腕のなかのわずかな隙間にイヨを閉じ込め、ソラは苦しそうな表情をしていた。
ただ彼女が欲しい。
彼女は自分を友達としてしか思っていない現状が悔しい。


「気分が悪いのか?」

「っ」


眉を下げて、心配な表情をするイヨが見上げる。彼女のあたたかい手が頬に触れた。すがるように、その手に甘える。
このまま彼女の唇を奪えたらいいのに。
そんな欲求が全身を駆け巡った。


「無理をしていたのか、ソラ? ごめんなさい、気が付かなかった……。どこかで休憩し」

「いや。いい」


ソラはイヨに白い首筋に顔をうずめる。キスを許されない今ではこれがソラの甘えであった。喉から手が出るほどイヨが欲しい。愛しているんだと気づいて欲しい。はやく自分だけのものになればいい。
その欲求だけがソラに積もっていく。

     

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