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▼ 泣いた青鬼

 ヒトなんて嫌いだ。
 私は何度も何度もそれを胸の中で繰り返した。いくら繰り返しつぶやいたところで世界が変わるわけではない。それだけで世界が変わるのなら、とっくの昔に世界は天地が逆転しているだろう。
 そっと、空を見上げた。憎たらしいほど、空は快晴だ。透き通る青に浮かぶ純白の雲。吸い込まれそうだった。空にくぎ付けになり、時間を忘れて眺めていた。

(馬鹿みたいだ……)

 待っているのか? 私は。彼を。私が彼をおいて行ったくせに。いつもしていた陽気な明るい声はあの山に置いてきた。私が自分の意志で置いてきた。まるで姉弟のようにして育った仲の、かけがえのない親友を。こんなにも寂しい気持ちで胸が詰まって窒息しそうなのに不思議と後悔はしていなかった。
 「僕はヒトが大好きだよ。だから家の前に看板を立ててみたんだ! 『心ノヤサシイ鬼ノウチデス。ドナタデモオイデクダサイ。オイシイオ菓子ガゴザイマス。オ茶モ沸カシテゴザイマス』って!」「何日も待ったのに誰も僕の家を訪れない。……なんでかな……」「悲しい」彼がそう言うのだ。私がどれだけヒトを嫌おうとも関係ない。彼の――赤鬼の悲しい顔なんて見てられなかった。そこで私は一つの提案をした。「私がヒトの村で暴れてくる。君はそんな悪の青鬼をこらしめてくれ。そうすればヒトは君を悪い鬼だなんて思わないだろう。そうすればヒトと仲良くできるはずだよ」彼は素直に私の言葉を受け取った。そして私の言った通りに行動した。村で暴れる私をこらしめた。彼は私に手加減をしてくれた。昔じゃれあっていた遊びを思い出す。こうしたことによって、赤鬼はヒトに信頼されるようになったのだ。彼は家にいる時間が依然に比べて激減した。彼が家にいない間はヒトの村でヒトと遊ぶか、鬼として生まれ持ってある怪力を活用してヒトの力仕事を手伝った。
 私の親友である赤鬼と悪役となった青鬼はその時から会わなくなった。
 親友の家にいくら訪れても彼はそこにいなかった。寂しかった。でも悲しいわけじゃない。嬉しかった。青色しか映らない彼の世界が昨日よりも今日よりも鮮やかに染まっている。それがどうしても私は嬉しくて、嬉しくてしょうがない。幸せだった。
 しかし、私はヒトが憎らしかった。親友の赤鬼を奪われたとは思っていない。私と、彼の家族を奪ったヒトが憎らしかった。私のお父さんとお母さん、そしてかわいい妹がキジに目玉をえぐられ、サルに四肢を引き抜かれて、イヌに散々噛まれて最後にヒトの少年が持つ刀で一突きにされたあの地獄絵図。当時はまだ赤ん坊だった赤鬼はこのことを覚えていないだろう。私はこの目に嫌というほど焼き付けている。だからヒトは嫌いだ。でも、赤鬼はヒトが好き。ならば私は彼を尊重しよう。悪役の私がいつまでも赤鬼の近くにいれば、せっかく獲得したヒトからの信頼を赤鬼は失ってしまうことになりかねない。私は赤鬼のためを思って、そしてヒトが死ぬほど大嫌いで、以前から暮らしていた家から出て旅にでることにした。
 いつの間にか、青空は赤色に染まっていた。近くにヒトの村があるが、泊めてくださいと鬼が言えるはずもない。どこか適当に夜を明かす場所を探さねばいけない。
ふららふらりと山の中を歩いた。どこか一晩明かすのに最適な場所はないだろうか。山から見下ろしたヒトの村は明るい。こんなにも明るいなんて、今日はなにかあるのだろうか。普段、夜になるとヒトは寝てしまうのに。

「祭りですよ」
「え?」

 後ろから声がした。振り返ると、そこには赤鬼よりも幼い姿をした子どもの鬼がいた。真っ黒な肌の色をしていて、下手くそに切った髪と鬼らしくギラリと光る獣のような瞳が印象的だった。いたずらが好きな無邪気で明るい性格を連想させる容姿とは裏腹に、彼の口からは敬語が飛び足してきた。

「今夜はヒトの村で祭りがあるんです」

 真っ黒な肌をした子どもの鬼――黒鬼は目を少し細くして村を山から見下ろした。その瞳は村の明りが灯り、キラキラと輝いている。

(ああ……。私はこの瞳を知っている)

 憧れを含んだ、彼の瞳を。
 赤鬼も同じ瞳をしていた。大きな目をキラキラさせて私にヒトへの憧れをたくさん話していた。この黒鬼も、ヒトに憧れているのだろうか。ヒトのことが大好きなんだろうか。彼も鬼が島であの光景を見たんじゃないの? それなのに……なぜ?

「俺はヒトが好きです。君は嫌い?」

 さきほどから、口にしていないのに彼は私の問いに難なく答えてくる。妖怪のサトリかと疑うほど的確だ。

「お姉さん、顔に出てます。すぐわかるんですよ」

 得意げに彼は笑った。尖った歯を見せて無邪気に笑う黒鬼。そんなに分りやすかっただろうかと、私は自分の頬に触れてみた。そうすると、ななめ下からクスクスと笑い声がした。眉間にしわを寄せて睨むように黒鬼をみればやはり彼は笑っていた。

「怖いよー。怒らないで怒らないで」

 まるで怒りを煽るような声音だったものの、さすがに年下の鬼に暴力をふるうことはできない。歯を食いしばって、持ち上げた腕を下した。黒鬼の目が先ほどとは違う形で少し細くなる。

「ヒトが嫌いですか?」
「さっきの言葉の次によくその質問が出るものだな。私はヒトが嫌いさ。君は好きなのか?」
「好きですね。あんなふうに楽しそうなのは憧れます。家族がいて、友達がいて……。ヒトは生まれてから死ぬまでなにかに囲まれて生きてる。孤独じゃない。そこがうらやましいです」
「私たち鬼を孤独にしたのはヒトだ」
「鬼が島のことですか? あれは過去のことでしょう」
「過去だからと水に流せるものではない! 私はヒトを許さない」

 たくさんの血を吹き出しながら叫び、悲鳴、助けを求める声。視界はただ肉のピンクと血の赤に染まるばかり。はらわたを引きずって血の涙を流すお母さん、四肢が無くなって、わずかに骨が残るだけになっても私たち家族を守ろうとしたお父さん。私に赤ん坊だった赤鬼をまかせたおばさんとおじさん。あの悲劇が頭から離れない。
 自分の爪が自身の手に食い込んで血が流れてしまうほど拳を強く握った。ヒトが大嫌いだ。憎い。そして無力だった私が……とても悔しい。

「それでも、過去は過去です」

 気が付いたときには私は黒鬼を殴っていた。顔を思いっきり殴った。黒鬼は倒れ、驚いた表情をしていた。しかしそれは一瞬のこと。彼は立ち上がらずそのまま寝ころんだ。真っ黒の空に光る星と月を見て、赤く腫れた頬を触りながら悲しそうな声をして言った。

「俺の家族も、あの桃太郎とかいうヒトに殺されました。妹はまだ赤ん坊だった。俺だってヒトが憎いですよ。でも、それは過去。過ぎたこと。もう終わった話」
「どうして家族を殺されたのにヒトが好きでいられる?」
「さあね。そんなややこしいこと俺自身にもわからないです」
「理解できない」
「お姉さんは憧れとか、ないですか? ヒトのこんなところが羨ましいなー、とか」
「そんなもの……」

 赤鬼は赤ん坊だったから鬼が島のことは覚えてないだろう。だからヒトが好きだと言えるんだ。でも、私はあの悲劇を見ている。だからどうしてもヒトが好きだとは言えない。言ってはいけない。でも、その経験者である黒鬼はヒトが好きらしい……。
 黒鬼は地面から私を見上げて、明確な反応を待っていた。

「……」
「無いって言いきれませんか?」
「私の世界は真っ赤だ……。赤のほかに色なんてない。赤しか見たことがない。血肉の赤と赤鬼の赤だけさ。ヒトを羨ましいと思ったことは一度もない。……、ただ、ヒトと触れ合うことで世界が色鮮やかになる赤鬼は……羨ましかった」

 吐露した言葉に、私も驚いた。
 頭で考えるよりも口が先に動いた。口に力の抜けた指が触れた。自分で自分の口を言葉を疑った。

「孤独こそが一番の地獄です」
 落ち着いた様子で黒鬼は私を見上げていた目線を空に移した。
「そう思って俺はヒトの輪に入ろうと神頼みしたことがあったんですけどね。この通り失敗しちゃった」

 孤独が死ぬほど辛くてヒトになりたかった。
 黒鬼は石段を積みあるような動作を両腕を使って表現したあと、バタンと両手を地面にたたきつけるように落とした。

「お姉さんは孤独の地獄に立とうとしてる。島からバラバラにして逃げた鬼たちは今もこれからも孤独のまま。お姉さんには赤鬼っていう鬼がいるんですよね? 彼にはヒトがいても、お姉さんにはなにもない。自分自身のために、その鬼のところに戻った方がいいですよ」
「私はヒトが嫌いだと言ったはずだ」
「本当に?」
「……え?」
「桃太郎は憎いけど、でも、お姉さんは本当にヒトが嫌い? ヒトはみんな桃太郎じゃないんですよ?」
「そん……な、ことは」

 息が詰まった。どうしたというのだ、私。私! この黒鬼が言おうとしていることは分る。結果的に彼が言いたいのは、このまま私は旅に出て孤独でいるべきではないと。ヒトを受け入れて、赤鬼のところに戻れと。でも、赤鬼を想うからこそ、私は戻ることができないんだ。

「様子でも見に行ったらどうです?」

 また顔に出ていたらしい。黒鬼はいつの間にか上半身を起こしてこちらに首を傾げていた。
 妙な静けさがした。風が止んで、山にいる私たちにも村で騒ぐヒトの声が聞こえるほどに。


 結局、私は黒鬼の言うことに従ってみることにした。

「げほっ……」

 一晩だけ黒鬼の家に泊めてもらい、朝になってから彼と別れた。

「くそ、ヒトめ」

 彼と別れてすぐのことだった。

「絶対に許さない……!」

 道の途中でヒトと遭遇してしまったのだ。運悪く、刃物を持ったヒトだった。赤鬼のこともあり、そして黒鬼の「ヒトはみんな桃太郎じゃないんですよ?」の一言を思い出して抵抗もしないでいたのが間違いだった。
 ヒトに恐れられ、それがきっかけに私は襲われた。
 今や、全身は傷だらけで、手足に感覚がない。息をするたびに身体のどこかが悲鳴をあげて痛くて苦しい。ガチガチと歯が震えて音を鳴らすほど寒気もしている。

「青鬼……」

 頬をつたうそれが涙なのか血なのかわからない。
 悔しい。
 ヒトに、また殺されてしまうことが。
 簡単に考えを変えた単純な自分が。
 無抵抗だった自分が。
 今、一人でいることが……。
 「大丈夫?」そう言って私を心配してくれる赤鬼は、どれだけ遠いところにいるんだろう。私の、大切な、大切な、唯一の友。

「っ大丈夫!?」

 貫くような声に、閉じかけていた目が開いた。眼球を動かしてみれば、そこには朝に分かれた黒鬼の姿があった。
「村がなんか騒がしくて、胸騒ぎがして来てみたら……!」
 彼のませた敬語は外れていた。彼は私を抱えると鬼の怪力をもって家まで大急ぎで戻っていった。家に着くと、傷口を糸で縫ったり、薬草を塗ったりと、彼の治療を受けた。私がしゃべられるまでに回復すると、彼はまた、孤独の話をしたが、今度は前回と話が違っていた。

「俺、今までもこれからもずっと一人なんだ。お姉さんは、一人?」
「……一人だ」
「じゃあさ、一人ぼっち同士、一緒にいようよ!」

 ずいっと黒鬼が顔を突き出した。あまりに近くて私はその額を叩く。すると黒鬼は私を睨んできたが、知らんぷり。

「えー、だめー?」

 溜息交じりに黒鬼は頬の空気を抜く。布団から黒鬼を見上げながら私は同じように溜息を吐いた。

「お前といると、私の世界はただの黒色になってしまう」
「ただの黒じゃないよ。水墨画みたいに綺麗な世界になるよ。お姉さんのなかは赤と黒だけじゃなくて、自身の青もあるんだから忘れないでよね。三色もあればたくさんの色が作れるよ。そうしてお姉さんの世界は鮮やかになる!」
「上手いことを言う。しかし赤と黒と青ではどんな色ができるのか……。そんなにたくさんできないだろう」
「そんなのやってみなくちゃ分らないって。それに、俺が奇跡でもなんでも起こしてみせるよ」

 必死で私を説得しようとしる黒鬼がかわいく見えてきた。寂しさのあまり、孤独は嫌だ、おいて行かないでくれと言っているようだ。
 いや……、そう思っているのは黒鬼じゃない。きっと私だ。寂しくて寂しくて潰れそうだった。黒鬼と一緒にいることで忘れていた。赤鬼と離れて、空っぽになった心を。
 鼻がつんとして、目じりからすっぱい水が流れた。

「!?」
「わ、わ! どうしたのお姉さん!」

 驚きを隠せないといった表情で黒鬼は袖をひっぱって私の頬をぬぐった。私は笑う。

「一人ぼっちでは、こうして涙をぬぐってもらうことも、それどころか泣くことも笑うこともできないだろう。黒鬼がどうしてもというのならば、私はここに留まろう」
「ど……っ! どうしても! どうしても青鬼に留まってほしい!」

 一生懸命になる黒鬼。その頭を撫でて、私はさらに笑みを濃くした。嬉しくて涙が止まらなくなった。
 世界が鮮やかに滲み始める。
 
   

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