「葵ちゃん!」


教室に駆け込んだ智雅くんは私とお兄ちゃんの腕を遠慮なく掴んで心配した。よほど勢いよく走り込んだのか、急には止まれず私たちにもその衝撃はやってきた。あとからゆっくりと山田さんが煙管に持ったまま入ってくる。


「智雅くん! よかった、合流できた。……あれ、赤先輩は……」

「ああ、あの赤いコートを着てた子なら山田が手荒くこの世界から追い出したよ」

「な、なるほど」


智雅くんは私の身体を隅々まで見、怪我を発見するとその傷口を手で覆って治癒してくれた。これにはお兄ちゃんが驚いたようで、目を丸くしている。


「小娘。さっさと出るぞ。こんな鬱陶しい世界などいつまでも居れん。壊したくなる」

「でも予兆はなくて」


私は隣にいるお兄ちゃんの手に触れる。確かに予兆はない。嘘ではない。しかし私が何より思うのはお兄ちゃんと離ればなれになってしまうことだ。せっかく会えたお兄ちゃんと一緒にいたい。そう思うのは、私の心の奥の奥、ずっと押し込めていた「帰りたい」という感情だ。口に出しては駄目だと禁じてきたその一言が熱を持った。

これはわがままだ。
子供がどうしても、と泣き叫ぶそれと同じ。
この状況を、状態を覆す力など持っていない非力だが、叶えてほしいと思わざるを得ないわがまま。


「葵」

「……。ありがとう、お兄ちゃん。守ってくれて」


するりと手を離す。
ここで立ち止まるわけにはいかない。

私には知りたいこと、やらなければいけないことがあるのだ。
それに目の前にいる花岸理貴は肉体をもった本当のお兄ちゃんじゃない。


「私、もう、行かなくちゃいけなくて」


いつか、本当のお兄ちゃんに出会えて「ただいま」と言えるその日を迎えるために。こんな汚くて理不尽で、嫌なことばかりの運命を歩かなくてはいけない。


「ありがとう、ありがとう、ありがとう、お兄ちゃん」


ゆっくりと、ではあるが山田さんへ近寄る。智雅くんもすでにそこにいる。

次の世界へ。前へ進もう。


「またな。葵」


絞り出したお兄ちゃんの声が浸透する。
私がどうして山田さんと智雅くんのところへ行くのか。どうしてこんなにも声が震えるのか。どうしてこんなにも惜しく思うのか。どうして泣きそうなのか。
私を取り巻く周囲をなにも知らないのに、お兄ちゃんは手を降った。またね、と。


「うん。またね」


やっぱり声は震えそうだ。智雅くんが私の手を掬い上げる。予兆のないトリップ体質を叩き起こしてこの世界から離脱しようとしてるのだ。この世界に白の侵食は進み、生身をもつ私たちがこのままいては死んでしまう。お兄ちゃんを置いて、私たちはお兄ちゃんと別れの言葉を交わして旅だった。



ひとり、残された花岸理貴はその白の侵食が進む世界に置き去りにされた。ふ、と笑みがこぼれる。


『おい。どうした? 寂しくて泣いてんのか?』


己にしか聞こえないその声に首を振る。


「葵が元気そうでよかった、と思っただけだ」


そして、花岸理貴も今度こそこの世界から消えた。現実で目を覚ますために。気を張った現実とは思いたくない現実で、膝を屈しないために。