あの頃は、家に帰るなんて当たり前だった。

まだトリップなんて知らなかった、あの頃。中学校に通うのも当たり前で、友達と話すのも当たり前で。家に帰ることでさえ、本当に、本当に、当たり前だったというのに。


「お兄ちゃん」


隣にいる兄は本物だ。夢の写しであり、本物の血肉を得てはいない花岸理貴ではあるが。しかし触れれば暖かいし、近付けば懐かしい吐息がする。お兄ちゃんは妄想でも幻でもなく、本物だ。ああ、本当に。本当は会いたくて会いたくてしょうがなかった。


「……じゃ、今日のところは帰るよ。俺」


すくっと智雅くんは立ち上がった。手近に置いてあった鞄を肩にかけると出口へ向かう。


「葵ちゃんのことは任せたよ、理貴」

「えっ? 智雅、もう帰るのかよ」

「なーに言ってんの。初等部って小学生だよ? 小学生がこんな夜まで遊んでちゃいけないの。俺は寮に帰るね。また明日」


ひらひらと手を振って智雅は有無を言わせず出ていった。いい笑顔でした。……それにしても、気を使わせちゃったみたいで。またお礼を言っておこう。


「葵、とりあえず俺は寮母に話つけて一晩ここにいてもいいように許可もらったから。ベッドに寝てろ」

「はあい」

「タオル濡らしてくるから身体拭けよ。食器の片付けはしとくから。パジャマは脱衣所に畳んであったやつ?」

「うん。ありがとう、お兄ちゃん」


いつもより少しだらけてみて。少しダメな子になってみたりして。私は甘えてみる。積極的に世話を焼いてくれるお兄ちゃんも、なんだか私と同じでいるような気がした。


「それにしても意外だったよ。葵が智雅と知り合いだったなんて」

「それは私もだよ。智雅くんとお兄ちゃんが仲良さげなのもびっくり」

「まー、色々あってな」

「ふふ。私も色々あって知り合ったんだよ。智雅くんってトラブルメーカーみたいなものだから」

「確かにな。言えてる」


軽く笑い、はたと私は気が付く。
そういえば私は今日を何度も繰り返していた。まるで智雅くんと合流して、トリップ体質である記憶とこの世界について知らせないために。今日はとりあえず大丈夫だろう。根拠はない。いつもの直感だ。明日は来る。
だが、今の私が気にかけているのはそこではない。
とある今日、お兄ちゃん、武器を持っていたような気がする。
それはどういう意味なのだろうか。