曇天の開幕
「こ、んの……っ!」
陽香は両手足をじたばたと振り、暴れようと試みたが失敗した。身体中が重く、まるで深海の底にいるような感覚に陥っているのだ。 動かない。とにかく動かない。 指のひとつでさえ動かすことが難しくなる。
魔術師ではない陽香には、一体このスライムが何なのか分からなかった。 あの少年のこともまったく分からなかった。 ――魔術師ではないこと。それが、魔術の世界に生きる横山陽香のハンデであった。
「ふざけんじゃ――ないわよ!」
陽香の手には大太刀。動かない腕を動かして柄を両手でしっかりと握り締める。 魔武器が声を上げた。
理貴が召喚したのは火を吹く蛇だ。全長三十メートルはあるその大きな蛇は少年を見下ろす。少年は口を歪ませて笑い、親指ほどの大きさしかない小瓶を引っ張り出した。 小瓶がどれだけ小さくとも錬金術師の手に掛かればその量などまったく無意味なのだ。たとえば、小瓶からプールを満タンにするほどの水を出すこともある。 少年は口で蓋を開け、自分を囲うように周囲に撒く。その間に蛇は炎を吐いた。炎はコンクリートの地面を溶かしたが、少年は一歩も動かず蛇を見据えていた。
「陽香を離せ」 「むりむり! だって怖い顔して追いかけてくるじゃん」 「話があるんだ」 「俺は話すことないから」
少年はさらに小瓶を出し、その中身を飲む。駆け出して逃げる少年を蛇が追いかけた。 しかし少年は速い。車に匹敵するほどの速さではないだろうか。先ほど飲み込んだ小瓶の中身が原因だろう。理貴は蛇に魔術を掛け、こちらも身体能力を強化する。風のように進む蛇は威嚇をしながら少年へ口を大きく開けた。少年の直上。蛇は毒を含んだら涎を垂らす。いざ口へ少年を入れる、その時。 すぐ横にあったコンビニが破裂した。 それは比喩ではない。ただ、本当に破裂したのだ。
コンクリートが飛び散り、店内に並べてあった商品が散乱する。コンクリートのいくつかは蛇にぶつかり、少年は器用に避けた。理貴にもコンクリートが飛んできたが、蛇がその長い胴体で守りきる。蛇の鱗は盾で出来上がっており、コンクリートごときではビクともしない。
「なんだ……?」
理貴と蛇が同じ方向へ、コンビニのあったところへ目を向けた。砂ぼこりが濃くてよく見えないが、人影があるように見える。
「ふくいーんちょ、大丈夫ー?」
少年がいつのまにか砂ぼこりのなかに入っていってしまう。理貴は睨みながらそれを見送った。蛇はどきどき口から火を見せながら理貴にならった。 辺りは静けさを取り戻す。 その間に理貴は陽香が閉じ込められたスライムの方に戻った。内側では陽香が大太刀を握っている。理貴は驚いた。すぐにスライムへ魔術をかけて水のように溶かそうとした。が、そうしようと実行に移すまえに妨害が入る。
理貴に向けられて飛ばされた一本のナイフ。ダーツのように研ぎ澄まされたそれは凄まじいスピードだった。理貴は動くことができなかったが、蛇がそれを防ぐ。 蛇は威嚇の体勢をした。
砂ぼこりが晴れていく。 飛び出てきたのは白衣を着る人間。その後ろには先ほどの少年がいた。白衣を着ている人間は色素の薄い髪と瞳をもち、悪魔よりも悪魔らしい笑顔をニヤニヤと浮かべていた。濃厚な殺意を漂わせながら、理貴を見て「あレ?」と首をかしげる。
「敵ガ増えてるけど、ネェー、智雅ー?」
白衣の人間は後ろにいる少年へ語りかける。 一瞬の隙を見せたその人物から理貴は後退りした。 直感がささやくのだ。「そいつは危険だ」と。 その人物は理貴とほぼ同年代だろう。服装はどこかの学校の制服。スカートを履いている様子から女性である――中性的な人物のため、判断が難しかった――。短いスカートの下にはジャージを履いていた。トイレに置いてあるような安っぽいゴム製のスリッパ、薄汚れた白衣。ひょろりと袖から伸びる細い手には何本ものナイフが、それをお手玉のように遊んでいる。まるで裂けたような三日月に歪める口元は不気味。瞳孔の開ききった瞳は殺気の色。不健康な肌のいろと「いひゃひゃ」という笑い声に背筋がこわばる。
とにかく、奇妙を、怪奇を、不気味を体現したような人物を目の前に、理貴は退くことを選んだ。まだ動けるだけいいだろう。凍るような冷や汗を緊張からくる熱い体から流し、理貴は恐れた。
「もー、副委員長ったら」
少年の陽気な声が少しだけ恐怖を中和する。しかし彼もよくわからない敵だ。
「逆だよ逆! 副委員長の相手はあっちだったでしょ」 「ああ。砂ぼこりのせいデ方向音痴しちゃったカ」 「とにかく副委員長、撤退撤退! めんどくさい敵増えちゃったよ」 「そうだネ!」
少年は腕をブンブンと振って副委員長と呼んだ白衣の人物を手招きする。副委員長は理貴に一瞥やったあと、少年の方へ向かおうとした。
「――さ、せ、な、い、わ、よ!!」
ビシャンと、水の弾けた音。理貴は咄嗟に魔術を唱え、陽香に身体強化の魔術をかけた。少年が仕掛けたスライムから脱した陽香は大太刀から火花を散らして地面を這う。コンクリートの地面を裂きながら、その刀身はまっすぐ副委員長の胴を狙った。水平に薙いだ剣筋を副委員長は伏せて避ける。少年は舌打ちした。
「理貴、サポートして!」 「任せろ!」
大きな蛇が陽香に寄る。 副委員長は悲しそうに眉を下げ、肩を落とした。
「お誘いは嬉しいケド、タイミングが悪いカナ」
少年が小瓶を割った。中から黒い煙幕が飛び出る。それはすぐに辺り一面に広がる。視界は使い物にならなくなった。陽香は構わず、先ほどまで副委員長と少年のいたところに斬りかかったが、空を切るだけだった。 陽香は「逃げられたっ」と洗いため息をした。
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