曇天の開幕
 


ひとまず、理貴と陽香は町のなかを歩いてみることにした。目的地がないため、ただひたすら真っ直ぐ進んでいく。
街はやはり静けさを貫いており、理貴らの足音以外に物音はない。雲はまったく動かず曇りのまま。転がっているのは人形ばかりで、生き物というのはせいぜい植物程度しかない。

何も変化がない。この街はまるで無人である。
きっと世界が終わるとしたら、これだけむなしく、寂しいものなのだろう。
いつも聞こえなかった呼吸や心臓の音がやけに耳に届く。音がない世界では耳がつんざくようだ。

「……なんか、おかしくない?」

ふと、陽香が首をかしげた。
なにもない世界でなにがおかしいのか。

「うん、えーと、これ、霧?」

陽香の目が遠くを見つめた。理貴はそのあとを追う。
白い煙のような靄が地面をゆったりと移動する。霧が出るような天候ではないのに、それは不自然にあった。
たしかに変だ。
そして更に霧の向こう。そこには鉄格子のような柵が、およそ十メートルの高さでそびえ立っていた。

「なんだあれ」

理貴と陽香はその柵に近付いていった。霧は薄いため、視界を大きく遮ることはない。難なく柵の目の前に立つ。陽香が恐る恐る触ろうとして、その手を理貴が掴んだ。陽香はすぐ手を引っ込める。

「……」
「ただの柵かどうかは分からない」

理貴はチョークを使って地面に小さく陣を描く。そこから一メートルはありそうな杖を出した。杖は茶色く、所々に数本の毛が飛び出ていた。茶色の中には赤い斑点が時々ある。

「理貴、その杖の素材はなんなの……?」
「人間」
「げっ」
「ちょうど俺らと同い年くらいの男だ。ここに俺の魔力をすこしだけ流せば身代わりになる」

理貴は杖に触れることなく、念力のようなもので操った。その杖が柵に触れる。
身代わりの杖は一瞬で砕けた。

「よし、触らない方がよさそうだな」
「そ、そのようね」

砕けた杖は破片を残さず理貴が描いた陣に吸収されていった。陽香の表情はひきつり、心なしか血色が悪くなったように見える。
更に理貴はもう一本同じ杖を取りだし、柵の上を飛び越えるよう操った。柵の先端を越えようとした杖はやはり砕ける。どうやら柵を越えることができないらしい。では、果たしてこの柵はどこまで続いているのだろうか。二人は柵に沿って歩き出した。
道中に地図が設置してあり、二人はそれを覗く。

「どうやら私たちは街の端を歩いているようね」
「ちょうど柵の向こうにある道路が区切りなんだろう。あっちは家ばかりだから、住宅街かな」
「柵はこっちの、繁華街方面をずっと囲っていたりして」
「囲う?」
「なんか、閉じ込められてるみたいじゃない。私たちはまるで囲われている様に感じるのよ」
「……ふむ」

理貴は少し考えてみたが、しかし思い付いたどれもは想像でしかない。携帯電話で地図の写真を撮って、二人はまた歩き出そうと進行方向を見た。
――少年が立っていた。

「……え?」
「げっ」

目を惹く金髪とまんまるに見開かれた幻想的な青い瞳。遠くからでもわかる整った顔立ちの少年は西洋人のようだ。小学生か、中学生になりそうなほどの年齢に見える。彼は「やっべ……」と口を動かし、颯爽と立ち去った。
当然、陽香も少年を目撃しているわけで。

「追いかけるわよ、理貴! 全力で!」
「ちょ、は、陽香っ、はやっ!」

陽香の瞬発力は素晴らしいもので、理貴が駆け出す時にはすでに遠くへ。理貴は主契約の悪魔に煽られながら慌てて彼女を追った。
ライオンやヒョウ、チーターに匹敵するほどの形相とスピードで陽香は少年を追う。容赦ない。理貴の視界のずっと向こうで「うっわ! 速!! 怖っ!!」と少年が叫んでいる。

少年はウエストポーチからガラスの小瓶を取り出した。そして瞬く間にそれを地面へ叩き付ける。中から小瓶に入っていたとは思えない量の緑の液体が出てきた。
急には止まれない陽香はまんまとその液体が広がる地面に足を踏み込んだ。すると、液体は大きく膨れ上がり、真ん丸の球体となる。大きさは一軒家ほどあるもので、見事に道路を封鎖する。その上、球体は陽香がを飲み込んでいた。緑色の液体は半透明で、奥の方にうっすら陽香が見えるくらいだ。

「うわ、こんな風になっちゃうんだ。実験失敗かな」

少年は肩を落とす。やっと追い付いた理貴はその球体に触れ、それがスライムのような柔らかさとわずかな弾力があることに気が付く。内側にいる陽香はなにやら怒鳴っているようだが、その音はすべてスライムに吸収されてしまっていた。
空気がないため苦しいのでは、と思うが、陽香にその様子はない。特殊なスライムである。改めて理貴が解析に入ろうとした。

「ふうん。君は慎重派なんだね。なるほど」

少年が、すぐ隣にいた。
巨大なスライムの向こう側にいたはずの少年が目の前に現れていたのだ。理貴は驚き、後ずさる。反射的にチョークを掴んだ。

「このスライム……、これはどう見ても錬成物だな。そしてお前の中にある魔力の逆さに廻る流れ。お前、錬金術師か」
「すごいね。そう、正解。悪魔が教えてくれたのかな」
「少しな」

少年はポーチの中に指をさしこむ。
理貴はしゃがむ。
チョークが走った。