曇天の開幕
「まだ血が温かい。亡くなったばかりなのね」 「……明らかな、他殺……。死んだばかりなら、犯人が、近くに……?」
姫子松の推測に理貴と陽香が頷いた。理貴は黒い狼の傍らで再び魔術陣を描く。その内からうじゃうじゃと、有象無象の虫が沸き出てきた。見るもおぞましいほどの数が飛び、地を這い渡る。陽香の表情が引きつった。
「これも、悪魔……?」 「いや。使い魔だ」
陽香は大太刀の鞘を抜いた。放った鞘は地に落ちる前に消え、柄を強く握り締める。黒い狼も姿勢を低くし、理貴は目を閉じて使い魔から反応を待つ。 すると、理貴が異変を感じた。閉じていた目を開き、周囲を睨む。周辺の音は使い魔を放ったときと変わらない。なにも。
「陽香、8時の方向。使い魔の反応が断絶した」 「分かった。行くわ」
静かに駆け出そうとした、その瞬間。 ビルのなかに反響して奇妙な笑い声が響き渡った。奇声を出していて、その声が男のものなのか女のものであるのかさえ区別がつかない。その声は次第に遠ざかっていってしまう。しかし反響しているせいで、どこから声がしているのか分からない。
「ねえ、僕の探知だと10時の方にいると思うんだけど……」 「じゃあ8時はブランクか!」 「かもね」
一番先に陽香が飛び出し、黒い狼が彼女と並走する。理貴は彼女らの後ろを。そして姫子松は反応が遅れて、最後尾で後を追った。
「うわっ、こっち来た」
その声がした。恐らく殺人犯の声だ。もうすぐで見付けられる。陽香は意気込んだ。 だが、それは頭上から落ちてきたビルの鉄骨によって阻まれてしまう。行く先を断たれ、進めなくなってしまったのだ。これでは犯人を発見するどころか追うことができない。 落ちてきた鉄骨は陽香の斬撃と理貴の魔術で怪我を防いだものの、進むことは困難となってしまった。
「……とりあえず、はっきりしたのは私たち以外にも動ける人がいるってことね」 「だな」
行く手を阻まれ、陽香は舌打ちをもらした。 その後、予定通り姫子松の自宅へ向かった。アパートの三階だ。アパートの手すりはどきどき錆びているものの、特別古い建物というわけではない。コンクリートの廊下を進み、白いドアが外へ向けて整列する。ドアの近くに傘を置いている住民もいるようだ。ときどき廊下側にある小さな窓が空いている部屋があるが、当然ながら人気はない。 三階の一番奥が姫子松の借りている部屋だ。
「ごめんね、部屋が片付いてなくて。昼ごはんは何かリクエストあるかな?」 「片付いてるわよ。私はなんでもいいんだけど……。理貴は?」 「陽香がリクエストないなら、オムライス」 「理貴くんって意外と子供っぽいんだね」 「なんでもいいだろ」
大人っぽいから意外だよ、と姫子松は微笑む。理貴はそっぽ向いた。悪魔と陽香の追撃もあった。 姫子松の部屋は本棚を中心にモノクロでまとまったきれいな部屋だ。姫子松が片付いてないと言ったのは、きっとテーブルに詰まれている歴史書のことだろう。 てきぱきとテーブルを片付け、理貴と陽香にソファでゆっくり待っているように言われた二人は従う。姫子松が台所へ消えた。
「理貴、さっき散らばったたくさんの……うう、思い出したら気持ち悪くなった……」 「使い魔か?」 「そ、そう。あれは回収したの?」 「いや。あのまま周辺の探索をさせてる。いまのところ特に新たな発見はないらしいけど」 「あの死体はなんだったのかしら。魔術的な意味はなさそうだったけど」 「なかったな。だから殺人には魔術の関与はなく、人が殺したってことだ。魔術師ならば魔術を行使するのが当たり前だ。だからきっと殺人犯はこの時間を止めた犯人とは別の犯人」 「……優先順位は時間を止めた方ね。殺人犯は邪魔になるのなら追い払いましょう」 「そうだな。しかし、この大魔術の手がかりがまったく掴めてないな。また街の探索をしたほうが良さそうだ」 「そうね」
陽香はテーブルに置かれているテレビのリモコンに手を伸ばした。テレビの電源を入れてみる。 電源は、入った。 しかし、どうだろう。その画面は。
「不思議なものね」
テレビ画面は映し出された。砂嵐ではなく、テレビにはスタジオの風景が映っていた。どうやらニュースのようだ。司会者がゲストの政治専門家やレギュラーメンバーの進行役となにか議論をかわしているところで止まっている。一時停止したような画面のまま、無音で。 画面内の左上にあるデジタル時計は午前のまま。いつまでも動かない。
「本当に時間が止まってるな。俺たちが異常であるようだ」 「私たちはこの一瞬の世界にいるのね」 「そうらしい」
台所から香ばしい匂いがする。 オムライスが運ばれてきた時には陽香が感嘆した。そのオムライスがあまりにも美味しそうに出来上がっているからである。ふわふわの卵と、それに詰め込まれた色鮮やかな具材とごはん。陽香は真っ先に「いただきます!」と元気よく手を合わせた。
「理貴くんと陽香ちゃんはことあとどうするの?」 「休む暇なんてないわ。探索よ、探索!」 「……ねえ、折り入って相談があるんだけど」
姫子松はスプーンの首を親指で擦りながら、薄笑いを浮かべる。
「この件、僕も協力していいかな」
あまり協力的でなかった姫子松の態度がかわった。 それは喜ばしいことだ。人手はあればあるほど嬉しい。なにせ、いまはまだ五里霧中なのだ。 しかし理貴は僅かな不穏を感じていた。
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