曇天の開幕
 


姫子松は始めて、笑顔を崩した。笑顔が溶けたその表情は飽きれ。そして脱力。顎に手を当て、考える素振りを見せる。進む足は止まらず、静かな歩道をゆっくり歩く。
背後にある二人ぶんの足音に耳を配りながら。

「時を止める魔術ってなによ。聞いたことある?」
「ない。でも不可能じゃないだろ。大物の悪魔か天使でも喚べばできるんじゃないか?」
「大物って、ルシファーとかガブリエルとか、そのへん? そんなの、ほぼ神よ」
「無理だよな。不可能じゃないだけだ」
「そうね。それ以外にそれらしい魔術はないかしら」
「メアリーさんなら知ってるかも知れないけど……、でも俺は知らないな。こんなの、魔術じゃなくて魔法だ」
「魔法なんて空想上の話じゃない」
「ありえないよな……」
「理貴の悪魔に聞いたらどうよ? 悪魔って知識を与えることができるんでしょ?」
「だめだめ。うちの悪魔は知識を授けるタイプじゃない」

好き勝手に話をしながらあとをついてくる少年少女に姫子松はついに、眉間にシワを寄せた。笑顔ばかり浮かべるこの青年がそんな顔をするのは珍しい。
ついに姫子松は足を止めて、振り返った。ひきつったまま口角をあげる。

「なんでついてくるの?」

誤解が晴れたとはいえ、ついさきほどまで敵意を向けていた相手と勝手に行動を共にしている理貴と陽香。姫子松は理貴らの仲間ではないし、行動を共にする仲でもない。

「じゃあ、姫子松はどこに向かってるんだ?」
「ホテル」
「なんで?」
「散歩してたからだよ。さっきも言ったでしょ? 君のお耳もお飾りなの?」

「じゃあちょうどいいわ。私たちの荷物も預けたいし。ちょうど予約したホテルの方向に向かってるし」と陽香は機嫌よく頷く。姫子松は諦めたようで、肩を落とした。

ホテルのロビー、その端に理貴と陽香はキャリーバックを置いた。当然のようにホテル内の人々はすべて、ぬいぐるみ。これではチェックインなどできない。そして、ひといきついた理貴と陽香は今後の計画に取りかかった。
その間、姫子松とは別行動。姫子松は自動販売機で購入した缶コーヒーを飲んでいた。陽香はその缶コーヒーがほぼコーヒー牛乳ほど甘く調整されていることを盗み見る。

「……だめだ。メアリーさんに連絡がつかない。電波が届かないみたいだ」
「そうよね、時間が止まってるもの。電話が届く可能性だって確実じゃない」
「ちなみに、放っておいた使い魔からの連絡は一切途絶えた。誰かに消されたようだった」
「誰か……。やっぱり犯人はいるってことね」

しばらく唸ったあと、「っあー!!」とポニーテールを大きくふって陽香が唸った。その大声に驚いた姫子松はコーヒーを喉に詰まらせて咳き込む。

「こーんなところで会議してもしょうがないわ! 探索にいきましょう!」

一瞬前までなかった大太刀の小尻を床に打ち付けた。陽香は理貴の腕を引っ張り、そして姫子松の腕も掴んだ。

「ちょっと、陽香ちゃん。僕も?」
「そうよ。私は魔力探知なんてできないし。どうやらみたところ、理貴よりも魔力探知の性能、上でしょう。他の魔術師を探すだけでいいわ。この状況を打開するために手伝って」
「……」

姫子松は考える。
まぶたを閉じて数分ほど黙りこんだあと、彼は静かに頷いた。

「よし、決まりね! さっそく行きましょう」

陽香は男二人を見かけによらない剛腕でホテルから引っ張りだし、街へと繰り出した。
耳がいたくなるくらいの静けさを保つ街中に靴音を鳴らす。広い歩道に向けて口を開く店の入り口はどれも奇妙だ。きっと朝までは店員と客の姿が見えたことだろう。

「……そういえば、お腹すいたわ」

飲食店を通り過ぎた陽香が呟いた。「忙しいやつだな」と理貴が呟いて、陽香に睨まれた。『おお、おお。気が強い嬢ちゃんだなァ。坊主、乗りこなせるか? ククク、見物だな』口を挟む悪魔を理貴は無視した。この悪魔。茶々をいれるのは理貴だけのようで、陽香と行動を共にしてから理貴にだけ聞こえるように呟く。

「困ったね。飲食店はどれも営業してないもんね。……そうだ」

姫子松は名案を思い付いた。

「僕の家においでよ。ご馳走するよ。これでも腕に自信があるんだ」
「いいわね!」
「引っ越したばかりで、家具の少ない家で良ければご案内しますよ」
「ついてくわ! 楽しみね!」

理貴は胃がむかつくのを感じながら鈍くなった足を動かした。先を進む陽香と姫子松より数歩だけ後ろに下がる。悪魔にちょっかいをかけられながら理貴も後に続く。
ふと……。理貴が空を見上げた瞬間――悲鳴が響き渡った。

「えっ、なに!?」
「女性の悲鳴、いや、断末魔か」

理貴はすぐにチョークを手に取り、地面に魔術陣を描く。
全長5メートルはある真っ黒な狼が召喚される。花のような香りを吐き、目はない。ときおり、口から様々な花弁を吐いている。
「すごい、初めてみた……。悪魔だ」と姫子松が感心した。

「こんなことで召喚して悪い。今の悲鳴のもとまで案内してくれ」

黒い狼は無愛想に進行方向へ歩きだした。
一行は黒い狼の後を追う。やって来たのは、建設途中のビルの真下。黒い狼は一つの柱へ駆け寄る。その柱には、一つの人影が。
姫子松がその人影に近寄り、そして足を止めた。言葉を失った姫子松に片眉をあげた理貴と陽香は姫子松の隣に立った。
職務を勤めた黒い狼の頭を撫でる理貴は、その人影に目を見開く。

その人影はあぐらに座り込み、上半身を前のめりに垂らしていた。そして、首がなかった。なくなった頭部はその人影が足の間で、大事そうに抱えていた。
それは、不気味な死体であった。