曇天の開幕
青丹市。 山々に囲われた広い平地に街が出来上がった地方都市だ。駅を中心に栄え、放射線にそって遠ざかるほど居住区となっている。横断するように流れる川は二つ。そのうち一つは山の向こうにあるダムに繋がっている。 灰色の厚い曇が覆う空の下。高層ビルが立ち並ぶ駅前でキャリーバックを引っ張る花岸理貴と横山陽香は現在、バスを待っていた。
「あんた、学校いってるの?」 「ああ。高校二年生。陽香は?」 「私は中卒よ。今年から協会で働いてるわ」 「でもセーラー服着てるけど」 「そこらへんの服より丈夫だからよ」
陽香はスカートのすそを摘まんでみる。渋い緑色を基調にしたセーラー服は確かに、所々擦れていたり汚れている。キャリーバックのなかにある着替えは制服だろうか、と理貴は考察した。 理貴も何着か制服を持ってきているが、今現在は私服だ。 『年頃の嬢ちゃんがお洒落しねえとは。欲がねえなあ』と理貴の主契約をしている悪魔が呟いた。
「これから一緒に仕事をするわけだから、理貴には言っておくわね」 「ん?」 「私、実は魔術師じゃないのよ」
「……は?」理貴は耳を疑った。 バスが着き、乗り込んで席に座る。陽香は膝の上で手をかざした。彼女の両手に20pほどの短剣が現れる。理貴に見せたあと、その短剣はすぐさま消す。水面が揺れるように表れたそれは魔術によるものだ。
「これは全部、魔武器の力。私から魔力を感じないでしょう?」 「……確かに」 「話はたったそれだけよ。私はただ無能に前線で戦うことしかできない。それを了承してほしかったの。――でも安心して。腕に自信はあるから!」
拳を振り上げ、二の腕を力強く叩いた。理貴よりずいぶんと小柄な少女だが頼もしい限りである。
「うん。前は任せた」 「……期待してるわよ、魔術師さん」
理貴が、始めて陽香に爽やかな笑顔を見せる。陽香が驚いて目を見開く。それからニカッと笑ってこたえた。互いに拳を合わせる。
二人が約束を交わした、ちょうどその瞬間だった。 ガクンと強い衝撃が二人を襲う。慣性の法則に従い、互いの重力はバスの進行方向に投げられた。前の席の背もたれに顔面をぶつけて鼻血を流す陽香。そして頭部を強打する理貴。 ――バスが急停車したのだ。
「な、何っ!?」
陽香は立ち上がり、周囲を見渡す。理貴はバスの窓を開けて外を見た。 今にも雨が降りだしそうな空はそ知らぬ顔で目下を見下ろしている。理貴は道路にあるすべての車が同じように停車し、そして耳をつんざくほどの無音に眉を潜めた。
「……ねえ、ちょっと。なによ、これ……」
陽香が理貴の肩をゆすった。理貴は外から視線を外してバスの車内に移す。陽香が指をさす車内。 車内も静かであった。 ――静かであることが、おかしい。 たった今、バスが急停車したのだ。このバスには理貴たちを含めて10人程度が乗車していたというのに、今現在、理貴と陽香だけしかいない。 陽香は席を飛び出して運転席へ駆けた。そしてすぐ、真っ青な顔をして理貴に向く。
「運転手さん、いないわ。……さっきまで居たのに!」 「そんな馬鹿な!」 「かわりに、これがあったわ」
陽香が手に持つのは一つのぬいぐるみだった。ゲームセンターの景品にもなっていそうな、およそ50pのくまのぬいぐるみだ。 理貴はあらためて車内をみる。そこには8つのぬいぐるみが。くま、うさぎ、とら、いぬ、ねこ……。子連れのぬいぐるみまである。さまざまな種類があるが、どれも同じ大きさのものであった。しかも、それはすべて、ついさきほどまで客が座っていた席に。
「大規模な魔術か……。魔力の流れを感じる。霧みたいに、この街を覆ってるぞ」 「魔術ですって!? こんなの聞いたことないわ!」 「全容がまったく分からない。とりあえず、外に出よう」 「そうね!」
二人はバスのドアを開けようとしたが、出られず窓から飛び出した。 街は、やはり静寂であった。 前方にあった軽自動車のなかを覗くと、運転席にしかのぬいぐるみがあった。二人で手分けして辺りの車を覗いてみたが、一つのこらず人の気配はない。そのかわりにあるのが、ぬいぐるみだ。 道端に落ちているぬいぐるみを見下ろしながら適当にスーパーへ入り込んでみたが、床にぬいぐるみが散らばっている有り様だ。
「単純に考えて、人間が……、というより、生き物がぬいぐるみになったのかしら」 「かもな。――その上、時が止まってる」 「え?」
理貴は腕時計と携帯電話の待受画面を陽香にみせた。 腕時計の秒針は止まり、携帯電話のデジタル時計をあらわす数字も変わらない。 陽香は絶句した。理貴も話す言葉はなく、無音ばかりがうるさく世界を響かせていた。そのなか、「あれれ、ななにかな。急に……」と、二人のものではない新たな声が。 理貴はポケットからプラスチックのケースを取りだし、中から真新しいチョークを掴んだ。
陽香は理貴の前に出て、声のする方へ慎重に進んでいった。 声音の主は、ビルとビルの間にある細い小道から。
理貴よりも少しだけ背の低い成人男性だ。しかし若く、20代半ばだろう。茶髪で長めの前髪から覗くのは伏し目がちの瞳。優しい顔立ちをした青年は辺りをキョロキョロと見渡しながら道路へ現れる。 彼は首をかしげ、眉を垂らした。困った表情をした青年は陽香と理貴を見つめると笑顔になる。
「君たち――」 「ちょっと待った。動かないで。あんた、どこの誰よ。この状況はあんたがやったことなの?」 「――へ?」
ぽかん、と口を開けた。青年はあからさまに困惑する。
「え、えっと、僕は姫子松。姫子松昴。んと……、通りすがりなんだけど。君たちは? この魔術の犯人かな? だったら元通りにしてほしいんだけど」 「……魔術のことを知っている。わずかだけど魔力の気配があるな。陽香、まずは話を聞こう」
陽香は渋々といった様子で矛を納めた。 青年――姫子松は薄っぺらい笑顔を張り付けている。
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