プロローグ
砂ぼこりが立ち上がり、視界が悪くなった。 カチ、カチ、と石を打つような音が静かな市街地に広がる。ただでさえ都心部から離れた田舎の真夜中で視界が悪いというのに。 花岸理貴は携帯電話を耳に当てたまま、手持ちのチョークを地面に滑らせた。
『このケーキ美味しいよ! コンビニとは思えない。あー、ほっぺが落ちちゃいそう! 手軽に買えていいのかなあ』
理貴の眉間にシワが寄る。 なおも砂ぼこりは立ち上がっていた。砂ぼこりの向こうでは、影が動き、理貴を翻弄する。舌打ちを漏らして電話の向こうに呼び掛けた。
「メアリーさん」 『あ、理貴。もー、返事がないけど聞いてた? 私のケーキの話!』 「まったく聞いてないけど、俺の話は聞いてた?」
電話の向こうにいる女性は口をいっぱいにしているのか、返事が遅い。両手を上げて喜んでいるメアリーの姿を想像して、理貴は「ケーキどころじゃないんだよ……」と頭を抱える。 チョークは相変わらず地面を滑っていた。
「俺、殺されそうなんだけど。助けて」
理貴がチョークで描いていた魔術陣は完成した。 正確な円と左右対称に描かれた幾何学模様は、芸術を思わせるような代物だ。 そして理貴は影を気にしながら悪魔の召喚を開始した。 しかし開始と同時に、影はその魔術を阻止しようと動き出す。
『ああ、うん。そうね。見てるよ見てるよ。理貴がピンチなところ』
メアリーは使い魔を通して、のんびりと理貴が陥っている状況を俯瞰していた。 理貴は現在、謎の襲撃者の奇襲を許している最中である。
時刻は日付が変わる12時。出歩く人はまったくいない。田舎であるなら当然だ。周囲を山で囲われた小さな市街地であっても、猫一匹すら通らない。――非常に隠密性の高い人払いの魔術が掛けられているせいだと気がついたのは、奇襲を受ける少し前だ。 それは無言で。無音で。突然の一閃が腕を切り裂いた。飛び散る己の血液に、理貴は対応ができなかった。 なにせ、理貴は魔術師。しかも見習い程度。半人前だ。突然の襲撃などめったにないし、こうして直接殺されることも、生まれてこの方片手で数えられる程度しかなかった。 それでも五分前には襲撃の有無にはっきりと気付けたのだから十分だろう。 師であるメアリーは頼りないし、主契約の悪魔は手を叩いて上空で高笑いをしている。
「俺を襲ってるやつ、殺していいのか? 報酬でる?」 『んー、こっちで取れる情報が少な過ぎて、なんとも。おっと、このタルト美味しい。理貴にも残しておいてあげるね』 「太るぞ」 『もう理貴には残さないからね』
電話相手であるメアリーはあまりにマイペースだ。危機感など露知らず。好きなようにケーキをたべ、ときおり紙をめくる音――おそらく読書――がする。
「……」 『もう。分かった。分かったわ』
砂ぼこりからのびてくる炎がチリチリと理貴の髪を焼いた。理貴はそれでも魔術陣のそばから離れず、悪魔の召喚を続ける。 魔術陣が歪み、主契約である悪魔の配下が召喚に応じた。
『彼女は世界魔術師協会のー、んー。戦闘班の一員ね。ちょっとどの班か分からないけど。魔術の質が薄くて個人が特定しにくいな』 「……薄い?」 『うん、そう。そこらへんを歩いてる一般より薄いかもしれない』 「それって、一般じゃ」
のびてくる、銀色の刃。長いそれは鈍い光を反射しながら理貴の眉間へまっすぐ砂ぼこりから現れた。それは細く、緩やかな弧を描いた長い刀。よく手入れされたそれは触れたものすべてを断つ恐ろしい切れ味を持っていた。 刺突で現れたのは刀だけではない。長い髪を後頭部で一纏めにしたポニーテールが絹のように舞い、きらりと光を抱いていた。見知らぬセーラー服を着ている襲撃者の奇襲を偶然にも理貴は回避した。 セーラー服の襲撃者は舌打ちを残し、理貴を通りすぎて再び砂ぼこりの中に消えていった。
「得物……、大きな刀、セーラー服、日本人! 女だ、長いポニーテール。髪は金髪に染めていた!」 『該当者数名。特定まであと少しかかるわ。それまで耐えて、理貴』 「了解……!」
そして襲撃者は再び理貴の前に現れた。 鋭い眼光をまっすぐ理貴へ向けるのは、すこし背の低い少女だ。平均には届かないだろうが、特別低すぎることはない。ゆらりとゆれる髪の下にある表情はたしかに殺気を宿らせていた。 地面すれすれを這っていた切っ先が掬うように振り上げられる。その間合いは広く、理貴には避けきれない。彼女と理貴の距離は1メールあるかないか。そこまで至近距離を許してしまったことへ歯軋りをする。 彼女が振るう刀はパチリと火花を散らした。そして溢れるように火が発生する。刃に纏う火は炎に変化した。 必殺を思わせるその一撃を、理貴は避けることも動くことも出来ず、ただ視界に入れることでいっぱいだった。 次に瞬きをした瞬間、理貴の体は真っ二つに割れているだろう。その刹那の間に、理貴が召喚した悪魔が滑り込んだ。
それは黒い甲冑の騎士。鞘から抜いた剣が彼女の刃を受け止める。
「くっ」
襲撃者の少女は後退。理貴も襲撃者の少女から距離をとるために後退した。
「助かった、アルマンド。ありがとう」 「いいえ。……これも我が主のためならば」
その甲冑の中は空洞だ。あるとすれば、闇。この悪魔は甲冑である。少女を相手にするならば最適の騎士だ。
「メアリーさん。電話つながってる?」 『はいはい、聞こえていますよ』 「相手、魔武器を持っていた」 『なるほど。なら完璧に特定できたよ! 彼女の名前は横山陽香。……現在、請け負っている任務は賞金首の追跡調査ね』 「……賞金首……?」 『理貴、また賞金首になってたの?』 「まさか」
襲撃者の少女――横山陽香は、身の丈をこえる大きな刀を構え直て相変わらず理貴を睨んだ。理貴と陽香の間には甲冑の悪魔が立ち塞がり、視線の盾になる。
「ふん。その歳で悪魔の召喚ができるなんて、ずいぶん優秀な魔術師のようね」
陽香は芯の通った力強い声を理貴へ投げ掛ける。「……それはどうも」と愛想なく返す理貴に、また鼻をならして笑う。
「いいわよ、合格。花岸理貴、あなたに話があるわ。付き合いなさい」 「……はあ?」
陽香はその場で、文字通り得物を消し去り丸腰となった。まったく事情が見えない理貴は携帯電話を耳から離し、ぽかんとする。陽香は両手を腰に当てて、理貴へ声を張り上げた。
「なにしてんの。私が得物から手を離して純粋に話がある、といっているのよ。あなたもそうしなさい。嘘はついていないわ」
ぽかんとする理貴と、目もとをつり上げる陽香の間で、甲冑の悪魔は両者を何度も往復して見た。
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