SSS


  

リャクが駆け付けた時、それはすでに遅かった。
彼の最高傑作とも呼べるナナリーは、血の沼に沈んでいたのだ。


「……ナナリー」


誰もいない六階で、彼女は意識を失っていた。彼女はきっと、リカやナイトを説得して作戦を続行させたのだろう。無茶な封術をもって。
もう、ナナリーは死んでいるに等しい状況だ。
絶命までもう間もなく。通常であるなら、もう看取ることしかできないはずである。そう、通常であるならば。リャクは治癒魔術に特化した聖属性を含めた天属性を習得している。

だから、ナナリーを救おうとした。無能者を異能者にした、世界の常識を覆すナナリーという最高傑作。これをみすみす見殺しにするわけにはいかない。
治癒魔術をかけようとして、リャクはふと止まった。ただ死の縁から掬い上げるだけならば聖属性の最上級魔術に相当する魔術でなんとかなる。


「……無茶をしすぎたな。ナナリー」


だが、ナナリーは五感を失っていた。神経がボロボロで使い物にならない。どれだけの治癒を施したところで、彼女を治癒魔術では救えない。壊れてしまっている。息をしているのが奇跡だ。
リャクはため息をする。リャクの重たいため息なんてナナリーには聞こえないはずなのに、彼女は静かに涙を流した。聴覚は死んでいる。いやナナリーは意識を失っているのだ。それなのに、リャクのために泣くのだ。


「そういえば、オレが生きてきたなかで、お前ほどオレに尽くす人間はいなかったな」


頬をつたって落ちていく涙は血溜まりに混ざる。リャクは血に濡れたナナリーの黒髪を一束すくいあげると、その髪に口付けをした。
最高傑作へ。親愛を。


「ナナリーは有能だ。ナナリーはオレにはまだ、必要な補佐だろうな」


そうして、リャクは、壊れてしまったナナリーを助けるために詠唱をする。もう誰にも救えないナナリーを救うために。禁断の死者蘇生に最も近い魔術を。
それはリャクもまだ実践したことのない、天属性の上級魔術。
死者蘇生の代償はいつか払わねばならない。


「――『リャク・ウィリディアスが命じる。名もない孤独な彼女を現世へ。すべての修復のもと、その代償は私が。健全な肉体と、健全な精神をここに』」


死者蘇生に代償がないのは不老不死くらいだろう。

リャクが発生させる魔力はこの世のものとは思えないほど濃厚だった。本来、毒にもなりえるリャクの魔力は現在、ナナリーを修復する薬になっていた。


「『すべての常識を覆そう。お前はオレがこの手で輪を外れることになる。神に逆らう我らに人間の道はなく、天罰もない。……代償は払った。すべてに別れと愛を注ぐ』」


詠唱は続く。
その魔術をかけられているナナリーは、また、世界の常識をひっくり返す存在となる。その代償はすべてリャクが負う。未知の天属性の特性が顔を覗かせた。
ナナリーは咳き込む。リャクは詠唱を続ける。
無能者だった異能者は、ふたたび小さな背中に救われる。