言葉の鎖「愛してる」
 

明治、大正の頃。港では肌が白く、鼻が大きな外国人を以前に増して見かけることが多かった。当時、そこに暮らしていた赤神キヨという少女はいつも不思議そうに彼らを眺めていたのだ。日が落ち、辺りが暗くなったとある日、女学院の帰りに長い黒髪と着物を揺らして歩いていると、目の前を通りかかった外国人に話しかけられた。下手くそに着た着物が外国人の堀の深い顔に不釣り合いで、赤神は印象深く彼のことを記憶した。はじめは訳のわからない言葉で話し掛けられて怯えていた赤神だが身ぶり手振りで察するに、どうやら彼は寝床を探しているようだった。赤神は彼を我が家に招き入れることになった。両親も快く受け入れ、兄弟のいなかった赤神はその日から弟ができたような気分だった。
カタコトの日本語を喋り、一緒に過ごした日々はまさに家族そのもの。彼の境遇は知らないが、確かに赤神家の家族だった。

その平和が崩れるのはあっという間だった。

毎晩毎晩、彼の寝床から聞こえていたうなり声が、その日の夜は大きかった。もしかしたら病を抱えているのやもしれないと、赤神とその両親はおそるおそる襖を開けた。
襖の向こうにいたのは、月光に照らされて蒼白い肌をする彼だった。蒼白い肌とは対照的に真っ赤に燃え広がった赤い目玉と、獣のような牙。真っ黒なコウモリが天井に張り付いていて、襖を開けた赤神たちを一斉に見た。先程までなにやら騒がしかった音も襖を開けたとたん静まりかえる。



「……ァァ……」



絞り出したようなカラカラの声は確かに彼のもの。化け物のような――否。化け物そのものの姿をした彼に両親を含めて赤神は怯え、恐怖の余り身動きがとれなかった。
灯りの点らない真っ黒な廊下へ一目散に逃げ出したのは誰が先だったのか分からない。ただ、父親の大きなに手を引っ張られて駆け出した手の暖かさは赤神は今でも忘れていない。

跳ね上がる心臓は騒がしく鼓動し、赤神は全身から冷や汗を吹き出していた。赤神の日本人らしい黒い瞳からなんの感情が引き金となったのか分からない涙が溢れる。背後から迫る恐怖の羽の音は呼吸を忘れさせ、疲労を忘れさせた。居間に着くと、父親が立て掛けてあった刀を腰にさし、娘と嫁の腕を力一杯引いて夜の町へ出た。ちょうちんを用意する暇がないせいで夜の道は闇。たまに家から漏れる灯火を頼りに逃げる。

しかし。

化け物はすぐ後ろに迫っていた。
化け物はまず、父親の胴に腕を刺して心臓を握り潰した。引き抜いた手には握り潰された心臓と、それにしても続く太い血管が引きずり出された。ボタボタと血が溢れる。幼い頃に湯飲みを横に倒してしまったときに溢れたあのお茶よりも真っ赤な血は父親の背中から大きな穴を開けて溢れていた。
化け物は次に母親を殺した。化け物は涙を流して叫びながらその首を噛む。うなじから噛みつかれ、神経をグチャグチャにされる母親を赤神は泣きながら見ていた。バリボリと現実味の溢れる音は、まるで、幼い頃に謝って魚の骨を食べてしまった時とそっくりな音を出していた。母親の血は化け物の口に入るものの飲まれることはなく、そのまま地面に落とされていく。
化け物は、最後に残った赤神を視界たっぷりに入れた。赤神は震える全身に鞭を打って、父親の腰から刀を抜き、化け物に刃を向けた。赤神は泣いていた。化け物も泣いていた。互いに何故涙を流しているのか分からない。
いつのまにか町からずいぶん離れたところまで駆けていたようで、化け物がいくら叫び散らかしても赤神を救ってくれる人はいない。赤神を救おうとしてくれた両親は死んでしまった。



「あ、あぁ……っ」

「ガァァアアア」



カチカチと歯が音を鳴らす。
化け物の口は母親の血で真っ赤に染まりつくし、化け物の腕は父親の血で紅色に塗りたくられていた。

今度はあたしの番。どうやって殺される? どうやって殺される? どうやって殺されるの? 嫌だ、嫌だ、あたしはまだ死にたくない、死にたくない、や、やだ、死ぬのは嫌だ。嫌だ!

生存本能ばかり死を否定するのに、赤神には抗う力などない。刀を持つ手は弱々しく、筆を持っているときの方が力が入っていたように思える。化け物は赤神を視界に満たした状態で、驚くべきことを口にした。



「ア、愛してる、キヨ」



と。
いつものカタコトではない。何度も何度も練習を重ねた美しい響き。彼は赤神に恋慕を抱いていた。――化け物なのに。……吸血鬼なのに。
彼は、赤神を心底愛していたのだ。その愛が故に彼女ともっと一緒に居たかった。一緒にいてはやがて吸血鬼の本能が彼女に手を出さないという理性に勝ってしまうと理解しているものの、欲には勝てなかった。吸血鬼は一度人を愛してしまうと、愛する人以外の血を求めない。例外などなく、彼は赤神だけを求めた。しかし求めては儚い彼女を殺してしまう。簡単に。少しかじりついただけで彼女を殺してしまう。彼女と一緒に居たい。彼女を殺したくない。二つの感情が入り交じって、ついに、理性は、負けた。赤神が愛する両親を、彼の恩人である赤神の両親を殺して、やっと、化け物は少しの理性を取り戻した。なんとか、赤神を前にすぐ殺さないでいられる。しかし目を冷ましたとき、彼女は自分に刃を向け、恩人はグチャグチャになって死んでいるではないか。化け物は、彼は絶望した。月に、天に、神に向かって叫んだ。高らかに声をあげた。運命とは残酷だ、と。彼の理性そのものも崩壊し、ネジ曲がり、歪に再構成される。赤神の怯える声が、化け物を鎖で縛り付けた。
鎖を力任せに引きちぎるように、化け物は彼女を押し倒す。赤神の視界は涙でまったく役に立たない。嗚咽の泣き声という鎖を踏みつけるように彼は自暴自棄になって、運命を狂わせた。恐怖で赤神が身動きできないことをいいことに、彼女の首筋を指でなぞる。愛おしげに優しく、蠱惑的な熱い視線をもって。甘い息を吐き、舌を這わせ、ねっとりとしたその首筋を、彼は吸い付くように口にした。ゆっくり、ゆっくりと鋭利な歯を赤神の白い肌に沈ませる。化け物は赤神の虜だった。
赤神は自分がなにをされているのかまったく分からなかった。両親の血は視界の端に。視界の大部分には化け物が覆っていた。指先から全身が冷えていき、痺れ、次第に意識は遠くなった。まもなく、赤神は意識を手放し、人間としての生に幕を下ろしたのだった。