吸血鬼
 

空腹が九条の意識を乗っ取った。目覚めたばかりの吸血鬼の本能が騒がしく、九条の理性はことごとく負けていた。
口を……、手を首を服を真っ赤な血に染め、満腹になると九条は徐々に理性を取り戻した。

駅の立体駐車場。その暗い隅っこで九条は会社員をしていそうな20代の女性を組みしいていた。
真っ白な肌に、首から漏れた美味しそうな血が垂れ、明かりがなくても栄えるように見えた。意識を取り戻した九条は勢いよく立ち上がり、怯えながら後ろへ下がっていった。足が絡まってすぐに尻餅をついてしまう。そのすぐ近くには赤神が立っていて、九条がしたことを終止見ていた。



「お、俺……!」



声が震えていた。声を出した九条の本人も自分の声が震えていたことに驚く。
九条は自分が何をしたのかすぐに理解できた。

人を殺した。
人の生き血を吸った。

真っ赤に染まった自分自身の手を見て気持ち悪くなり、口を抑えたが吐き気はない。九条はどうしたらいいのかわからなくなった。



「ようこそ」



そんな九条に赤神はそう告げた。
九条が顔をあげる。赤神は笑っていない。無表情だった。



「これがあたしたちの食事。あんたは人間じゃないの。吸血鬼なの。人間を捕食するのが常識」



「食事が終わったなら帰るよ」そう言って赤神は霧になって見えなくなった。ここに留まるわけにもいかず、九条も赤神の後を追うことにした。

自分から進んで吸血鬼になったのだ。覚悟はしていた。それなのに人を殺して生きていく覚悟は足りなかった。こんなことで折れていてはいけない。自分で吸血鬼になったのだから。

立ち上がって、九条も赤神と同じように姿を霧にして立体駐車場から居なくなった。ロルフがいるダンの家に戻ったときにはすでに一日がまたリセットされていた。ドアを開けるとロルフが狼と戯れており、ダンは面倒くさそうにベランダで隣人の文句に付き合っていた。



「ただい――」

「ただいま」



赤神の声はすぐに途切れた。狼が一匹、赤神を押し倒して彼女の服を引っ張ってロルフのもとに連れていったのだ。ロルフはその赤神を「小さい小さい」と容赦なく抱き締め、赤神は「犬臭い! 触るな犬!」と芋虫を噛み殺すような顔をしている。九条はもう一匹の狼が自分に着いてくるのを感じながら部屋を進んでいった。ガラス越しにダンへ洗面所を借りると伝える。

肌についた血を洗い流しながら九条は吸血鬼になったことを後悔していないのだろうかと自分自身に問いかけていた。高橋を――仲間を取り返すためなら人間をやめてもいいと思っていた。姉の元から家出をしたことを後悔するように、後悔はしたくなかった。だから仲間を助けるためなら後悔はしていない。
正面を見ると鏡の向こうから赤い目がこちらを見てくる。



「ったく、なんで愚直いうなら探偵やってるんだか……」

「ちょ、ちょっとそこのダン! なんで通りすぎてんの助けてよ!」

「そこのダンってなんだよ。俺が何人いる前提なんだっつの」

「え……、赤神、逃げるの……?」



九条はドア越しに聞こえる会話に耳を傾ける。寄り添うように着いてきた狼を撫でながら、口のなかに残った血の味を舌で確めた。

ああ、美味しかった。と。