ペンキを溢さないで!
 


その日、フラーウスが家に帰ってきたのは普段より遅かった。学校で少し居残っていたのと電車の時間が合わなかった理由が重なり、時刻は夕食時を少しだけ過ぎたあたりだ。
フラーウスが玄関のドアを開けて最初に見たものは血だった。

なんのことか、何が起きたのかまったくわからない。治療とリハビリがもうすぐで終わる、あの片腕がない少年に会うのが楽しみで帰ってきたフラーウスにとって、状況が一切わからなかった。
はじめは玄関にベッチャリと擦り付けられたものがなんなのか解らなかった。しかし強く、濃い鉄の臭いが嫌でもその正体をフラーウスに知らせた。

金色の目が揺らぐ。

フラーウスは鞄を玄関に置いたまま急いで血のあとを追った。ペンキを溢したような血はとある一室に続いた。その途中で自分の部屋に入り、母親から貰っていた刀を掴みとった。血が廊下に広がるなんてただ事ではないと、フラーウスは再び血を追う。それは父親の診療室に続いた。いつでも抜刀できるよう、鞘を持った左を腰のあたりにもっていき、物音をたてずに静かにドアを開いた。

血の先にはぐったりとした父親の姿があった。フラーウスは呼吸を忘れた。玄関から廊下までの出血量では父親は意識がないだろう。そこへ、さらに銃声が家のどこかからした。



「な、なに……? どういうこと?」



父親のもとへ歩み寄ろうとしたフラーウスは動きをとめた。が、すぐに父親のすぐそばまで行って、彼の動脈を計る。

がらがらがら

静かな部屋のなか、引き戸が開く音がした。フラーウスはその音がした方向を見た。それが近くでなり、それが自分のすぐ隣の棚だということまでは聞き分けた。フラーウスでもギリギリ入れるくらいの体積くらいしかない。

がらがらがら

開く、開く。ゆっくりと。それが開いたとき、中からフラーウスも知らない人間が現れた。



「誰、君……」

「あ……」



手の甲を真っ赤に染めた少女が、驚いた顔でフラーウスを見ていた。腰まで届きそうな薄い茶色の長髪。光の加減か、不思議と桃色の印象を受ける茶髪の少女。可愛らしいというよりも、将来は美人になりそうな少女。
目尻を赤くした少女はフラーウスを見て、そして彼の父を見た。



「せ、先生……っ?」



どうやら父親の患者らしかった。膝小僧に絆創膏が貼ってある。



「ちょ、ちょっと、泣かないで! どうしてこうなったのか僕に説明してくれるかな?」



フラーウスは優しく笑って少女の頭を撫で、今にも泣きそうであった彼女を落ち着かせた。少女はフラーウスの顔を見て、そっと涙を流した。



「君、先生の息子さん?」

「そう、フラーウスって言うの。君は?」

「僕は右都……、あの、先生は?」

「さっき動脈を計ったけど、父さんは、もう生きてないんだ」

「……泣かないんですか?」

「悲しいけど泣いていられない状況だと思って」

「そうですか……。……ふふっ。変なの、息子のフラーウスは泣かないのに初対面の私が泣いてるよ」



いつのまにか涙を止めて、右都は困ったように小さく笑った。フラーウスも微笑みかける。

父親の死に対して、それは予測していたのだ。闇医者は恨みを買うことがある。ましてやこんな狭い防御壁都市のなかでは裏社会に生きる戦えない人間は死んでしまうものだ。父親は、実際、戦う力はもっていない闇医者だった。南区にいる闇医者は戦えるらしいが、中央区の闇医者にそんな力はない。回収屋の母親には幼い頃から何度も言い聞かされていたことだ。覚悟はしていた。半端な立ち位置のフラーウスも身の危険はあるものだが。



「フラーウス、説明するね。でも俺はここで起きたことしかわからないよ……?」

「今はそれで十分だよ」



右都は涙を拭いて、顔を整えた。