大江戸いろは歌 | ナノ
算盤を弾く音が高らかに響く店内。
着物を試す多くの客で賑わうそこは池袋のほぼ中央に位置する有名呉服店"天馬堂"。
毎日百人は優に越える注文を得るその店は今日も多くの客を迎えている。
実なる木は花から知れる
「ありあとっしたー」
気の抜ける感のある声が店を出るお得意の背中を追い、その声の主は客が出ていったのを確認して帳簿に視線をやった。
数字を目で追いながら凝った肩を意識して溜め息を吐く。するといきなり背後から伸びてきた手が肩を叩きだした。
『うわ、すごい凝ってるんだけど。たまにはちゃんと休暇とろうよとむさん』
「あー、止めてくださいよお嬢さん。俺が沙樹ちゃんに叱られっから」
『気にしない気にしない!超有能番頭とむさんに倒れられたら天馬堂は路頭に迷うことになるんだからこれくらい沙樹だって大目に見てくれるよ』
呑気に笑って肩叩きを続行する小夜にとむは諦めたように溜め息を吐き、帳簿に目を戻した。
ここ数ヶ月の注文、発注、仕入れ。それらの総括は膨大な情報管理が必要で、とむがそれを一手に担っているため、必然とむの負担は大きい。
それを小夜や沙樹、静雄はしょっちゅう心配していて、ことあるごとに休めと言われるが、休みをとりたくはないので、せめて気遣いはなるべく受け入れることにしていた。
『てかとむさんさっきの私の忠告、さりげなく流したねー?本当に休みとったほうがいいよ、もう二ヶ月休みなしじゃん』
「うーん、でもなあ。最近凄く繁盛してるし、ここで休むと逆に戻ってきた時が大変になりすぎるべ」
『そんなこと言ってたらいつまで経っても休めないって!一日くらい静雄に任せてもなんとかなると思うよ』
「まあ、そうかもしんないけどな」
現在あの天馬堂手代にはせるてぃに高級布地の注文伝票を出してもらいにいっている。そろそろ戻ってくるだろうと思いながらとむは静雄に仕事を任せても大丈夫か否かに想像を巡らせてみた。
「……ようやっと取引相手にキレなくはなったんだけどな。お嬢さんがけしかけた時がこわいんだよなぁ」
『えー?私そんなことしないよ?』
白々しくそっぽを向く小夜にとむは苦笑した。十年この商家に勤めて静雄は大分商売に関しては抑制を覚えたが、小夜に色々任せるとそれも定かではない。
「じゃあ、一週間後あたり一応出荷予定のない日があっから、休むとしたらそこかね。注文来たりしたらお嬢さんに任せることになんだけど大丈夫か?」
『おまかせあれ!私の商才は知ってるでしょ!!』
肩叩きを中断し、男らしく胸を叩く小夜にとむは苦笑する。
今は亡き先代の天馬堂の旦那が小夜は至極商売向きの思考をしている。女の身でもなかなか働けるかもしれないと嬉しげに言っていたのを思いだした。
「商才があるってのはよーく知ってるけどさ。女だからっつって舐められることも多いべ。気をつけろよ」
『そういう時こそ静雄を頼るから大丈夫!!ね、静雄!!』
「え…何の話っすかとむさん」
折り良く帰って来た静雄のいぶかしげな表情を見ながらけらけら笑う小夜にとむはだからそこでお嬢さんが静雄を取引先にけしかけると思うと心配なんだってと心中溢す。
『さーってと、こんなものかな。ちょっとは楽になった?』
「あーそうだな。大分調子良くなったわ。ありがとよ」
『やったぁとむさんに感謝されちゃったー!ね、静雄私偉いでしょ!!』
「あぁ、とむさん最近疲れ気味っすよね。今日まだ仕事あるんだったら俺代わりにやりますよ」
『うわ見事に流された!!』
「おーじょーさーん?巫山戯てる暇があったら御用聞きに行く準備しろってんだよおい」
ぎゃいぎゃいぎゃいと騒ぐ二人を傍目に軽くなった肩を意識しながら苦笑し、帳簿に目を戻したとむは伝票片手に店を出る二人を見送った。
──その四刻後、小夜が静雄を撒いてどこかに行ったという話に頭を抱えることになる。
そうしてとむは思うのだ。
小夜は確かに実のなる花かもしれないが、実になる日は遠そうだと。
そして誰にも言う気はないのだが──その間まだまだ面倒をみていられることが嬉しいと思いながら今日も天馬堂繁盛の一手を担うのだ。
[*前] | [次#]