大江戸いろは歌 | ナノ
江戸の町中空高く、響き渡るは怒声と悲鳴。
最早日常と化しているそれの今日の元凶は、蚤蟲と呼ばれるかの男。
周囲の一般人をも巻き込み吹き飛ばす其れを憂う者、厭う者、煽る者、喜ぶ者と、対する応えは様々なれどやはり今日も江戸町池袋は至極平和である。
憎まれっ子世に憚る
「し、ねぇぇぇえええっっっ!!!」
「あははは!ほんっと静ちゃんって語彙少ないよね!商家の人間がそんなことでいーのかなぁ」
「〜〜〜〜〜〜っ殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すっ!!」
店前で台八車やら木やら何やらが宙を舞うのを小夜は天馬堂の中から未だ喧嘩を止める気配もない二人を眺めてため息を吐いた。
『あーあーこれ当分止まらないね。臨也も静雄が気にしてることわざわざつつくしさぁ…ああうざい。ね、沙樹もそう思うでしょ?』
「…お嬢様、あれでも一応天馬堂最大手のお得意様だからね?」
『そうそう、一々馬鹿高い着物ばっか買ってく辺りが嫌味だよね。客の間は静雄が怒らなくなったからってわざと静雄に採寸とか頼んでその間に言いたい放題とか』
「…確かに被害額も多いけど、向こうが賠償してるから客として来るのを止めてくださいとも言えないよね」
『そうそう。その辺りが計算高すぎてむかつくんだよねー。そのくせ嫁に来いってしつこいし。妓楼通い激しい癖に私口説こうとか百年早いよ。性格悪いし外見好みじゃないし、絶対ご免だよね』
「まだ臨也さんお嬢様口説いてたの…」
『うん。あ、臨也逃げてった。ってあー、静雄まで追いかけないでよ静雄ー!!』
早くも通りから姿を消しかけている臨也を追いかけようと走りだしかけた静雄に小夜が声をかけると静雄は未だ苛々した様子で振り向いた。
「……なんすか、お嬢さん」
『池袋出ちゃうと同心とか岡っ引の買収できてないから捕まっちゃう。それが臨也の狙いなんだから。それにほら、とむさんそろそろ御用聞きに行くから一緒に行って勉強してくれば?』
「……おう」
なんだかんだ、静雄は向上心が強い。とむが御用聞きに行くとなると出きるだけ一緒に行って取引の様子を見たがる。
小夜の的確な静雄のなだめ方は最早職人技だ。静雄は早くも怒りが冷めたらしく、天馬堂に入っていく。
「流石だねお嬢様」
『ふっふっふ、思う存分褒めたたえていいよ沙樹。私の凄さを一番わかってくれてるのは沙樹だもんね』
「駄目なところも一番知ってるけどね。それにさっき買収してる人に同心さんまで挙げてたけどどういうこと?」
『ななな何のことかなぁ!?』
沙樹の指摘に小夜は一挙に挙動不審になったが直後にかけられた声に一転して不機嫌となった。
「ほーんと小夜は人がいいよねぇ?あんな化物のためにあちこちお金ばらまいたりしてさぁ?」
『その損失の五割はあんたのせいだってわかってる?とりあえず帰れ』
「冷たいなぁ。シズちゃんのせいでろくに話せなかったからわざわざ戻って来たのに」
天馬堂の脇道からひょいと顔を出した臨也に顔をしかめて小夜は距離をとった。
「おやおやひどいじゃないか。俺は君に何もしたことはないだろ?むしろただで情報提供してあげたり精一杯貢いでるつもりなんだけど」
『うざっ!そんなに貢ぎたいなら好きなだけ遊郭の太夫さんとかに貢げばいいじゃん。だからさっさと京に帰れ』
しかし臨也は小夜の辛辣な言葉にいやらしい笑みを浮かべて距離を詰めた。
「小夜の照れ隠しって可愛いよねぇ」
『何時!何処で!誰が!照れ隠しなんてしたってのよ!!』
「今まさにでしょ?例えば──」
自然な挙動で小夜と臨也の顔の距離が縮まり、吐息が触れかけたところで、二人の額に手がかかり、一息に互いを引き剥がした。
「えー、さっさとお帰りやがり下さいませ臨也さん?あんまり長居しているようだと生きて池袋を出る保証しかねますからね?」
「…沙樹か。天馬堂の皆といい、本当に小夜はこの街の面々に好かれてるよねぇ」
呆れたようにしながらも流れるように小夜の手をとり、口づけた臨也は不敵に笑う。
「ま、それでも小夜は俺が嫁に貰うけどね」
その笑みに小夜は正に極上の笑みを返して勢いよく息を吸い込んだ。
『…っ、きゃ───────────!!』
「え、君そんなきゃらじゃ」
ないだろ、と言おうとしたのだろう台詞は僅かに反らした頭をかすめて壁に突き立った木材に遮られた。
そして、投げたのは勿論のこと静雄である。(因みに天馬堂前には投擲用木材が常備されている)
「いーざーやーくんよぉ…とぉぉっくに帰ったもんだと思ったのにまだいるうえ嫁入り前のお嬢様に悲鳴上げさせるようなことしやがったのはつまり俺に殺される覚悟があるってことだよなぁ?」
『ふふふそうらしいからさくっと殺っちゃっていいよー。街の外まで追いかけても私が許すっていうか地の果てまで追いかけても絶対一発喰らわせてきて!!』
小夜の言葉が終わる前に駆け出していた臨也を追いかける静雄に小夜はため息を吐いてうろんな目を向けたが、次には楽しげに眦を下げた。
『でーも臨也はなんやかや逃げ仰せるんだろうなー…まあ、只では帰れないだろうけど』
「…帰らせない、じゃないの?」
沙樹の諦め交じりの口調に何かを含んだように笑って小夜は着物の裾を翻えした。
『ふふっ、ここは私の街だから、ね』
この街のあらゆる人間、至る場所全てに小夜の力が及ぶ。
江戸町屈指の呉服屋天馬堂現当主。人格、頭脳、経済力、あらゆる面でこの街の誰よりも秀で、天衣無縫な振る舞いを許された少女。
そうして今日も小夜は池袋を愛し池袋に愛されながらこの江戸町を巡り歩いて笑うのだ。
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