未来を生きる子供たちへ


時間とは常に未来、過去、現在の三つで成り立っている。しかし世界はもっと広い。その時何を言い、何をするか。その一つ一つで決まっていく未来。可能性。人の生の道とは必ずしも一つだけではない。幾重にも別れた可能性の世界。それを人はパラレルワールドと呼ぶ。


「また……」


ぺたりと小さな手を鏡にはりつけて、マーモンは小さく呟いた。手の温もりから鏡が曇る。その部分が微かに揺れるのをマーモンは見逃さなかった。世界とは幾重の線であり、それは必ずしも一直線とは限らない。世界には「その世界の自分が捨てた選択の世界」が存在する。それは「もしも」の分だけ生産され、誰もが一度はあの時こうしていたら、と考えるような世界だ。そしてその世界は目には見えずとも必ず側に存在する。その入り口は至るところに存在するが、普段はぴたりと閉じられていて、互いに干渉しあうことはない。しかし最近、その境界線に歪みが生じてきているのをマーモンは感じとっていた。


「かなり広くなったな……。世界の均衡が崩れるのも時間の問題か…」


ふう、とため息をついて手を離す。鏡などの自分や世界を映す存在は繋げやすい。術士は空間の違いに敏感だったが、サイキッカーであるマーモンはとくにそういったものを感じやすかった。どうしたものか、と捻ってみてもなかなか妙案は浮かばない。その間にも境界は解れ、交わっていく。それが吉なのか凶なのか、それはマーモンにもわからなかったが、とにかく今までの状態でなくなることは確かだった。


「なーにしてんの、マーモン」
「ム。ベル」


かつんかつんと音を立てて歩みよって来たのはベルフェゴールだった。ベルフェゴールはふわふわと浮いているマーモンを腕におさめて、一緒に鏡の前に立つ。


「何、オシャレでもしてた?」
「違うよ。それに、今の僕がめかしこんだところで、いくらにもならないだろう」
「じゃー、ホントーの姿なら金になったの?」
「さあ、どうかな」


ベルフェゴールは左腕にマーモンを移動させ、右手で自分の前髪をすきはじめる。まだまだ子供でも身だしなみなどを気にする年になったのだな、と少し笑えてしまった。それにベルフェゴールが「何、」と訝しんで訊くと、マーモンは「なんでもないよ」とやはり少し笑みをもって応える。だからベルフェゴールは「あっそ」と少し拗ねた調子で、また前髪を直した。


「マーモンがめかしこむとか、リップ以外ねーもんなー」
「別にめかしてるわけじゃないよ。唇が乾燥して痛いんだ」
「ふーん。俺も塗ってみよっかなー」
「ベルには向かないと思うよ。ベタベタして気持ち悪いとか言って、すぐとるのが落ちさ」
「えー?」


例えばこのあと、マーモンがリップクリームをあげたら。例えばベルフェゴールがそれを受けとり、つけたら。それはそれで違った未来がくるだろう。そうやって選択し、可能性は広がっていく。それは一生しなければいけないものの中で、心臓を動かすことよりも呼吸をすることよりも、一番難しいことだ。


「……まあ、つけてみたいならつけてみればいいさ」
「んー、気ぃ向いたらしてみるよ」


選択して、安心して、後悔する。選んだ道がどんな未来かなんて誰にも予想することなどできはしないのだから、あとは自身が選ぶしかない。けれどただ一つ、思い願うことがマーモンにはあった。どんな選択をし、どんな未来になっても、これだけはわかってほしいと願うことがあったのだ。








目の前に転がるコロネロは、もう起き上がることはなかった。次は本当に自分の番なのだな、とマーモンは妙に冷静になって、それを容易く受け入れてしまえた。彼が命をかけて庇ってくれたというのに、それはたった数分の長生きに過ぎないものになってしまったということだけが残念だった。

今になってあんなことを思い出すなんて、と自嘲する。倒れたこの体がもう動くことはないと、マーモンはとっくに悟っていた。後悔、しているのだろうか。あの時の自分を。空間の乱れに気づきながら放っておいた自分を。視界が霞む。まるで靄がかかったように思考も曖昧だ。マーモンは命費えた彼の傍へと近づき、ニヒルに笑う。


「……君も、大層、バカだな…ぁ…」


自分を庇わなければ、この数分を生きたのは君だったかもしれないのに。けれどマーモンはわかっていた。彼は後悔などしていないのだと。ただ一つするとしたら、己ではなく、この他人を生かしてやれなかったことを悔やむような、そんな奴なのだと。


「生きて、やれなくて……ごめん……」


自分に生きてほしかった彼に、生きていたかった自分に、生きることを諦めてしまった自分から心を込めて。もう、力は残っていない。だからせめて、残った者たちのために最後の願いを呟く。


「Spero che il futuro diventi migliore…」


たとえ何を選びどんな結末になろうと、必要なことは後悔ではない。それをどう変えるか。それだけだったのだ。あの時の小さな彼は、それをわかってくれていただろうか。そうして静かに瞼をおろして、笑った。







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