吸い込まれるくらいの、藍の髪。
あれから、ティキと名前はお互いについて簡単に自己紹介をした。
年はいくつだとか、何をしているだとか。
名前は現在大学に通っている学生で、元々兄と二人暮らしをしていたらしい。
元々、という言葉にティキが違和感を感じて問えば、その兄は昨年不慮の事故で死んでしまったとのことだった。
聞くべきではなかったとティキは申し訳なさそうにするも、名前はただ笑っていた。
二人が話していた中で、わかったことがあった。
ティキ曰く、彼の住んでいた時代は19世紀。
今、名前が生きるこの世界は21世紀で、誰かにつれてこられた、などという次元の話ではないということ。
また、彼の言う"AKUMA"という存在が、この世界にはないということ。
恐らく、それらのことを踏まえ、全く別の世界から来てしまったのではないかという結論に至ったのだった。
その話を聞いていたティキはと言えば、不思議そうな顔をするばかりだったが。
「…では、やっぱり帰る場所がないということですね」
「…ま、お嬢さんの出した結論が正しいっつーんなら、そういうことになるな」
そう言って、ティキは座っていたソファーへと深く身を沈めた。
当の本人だというのに落ち着いてる、そんなことを思いながら、名前は苦笑を浮かべつつもダイニングに立った。
二人が起きたのが朝の7時。
こうして話し終えたのが、8時。
お互いにお腹も空いているのだろうと思い、とりあえず朝食を作ろうと考えたらしい。
てきぱき動く名前の後ろ姿を視界の隅に捉え、ティキは名前に悟られないよう、静かに溜め息をついた。
――えらく平然としてんな、このお嬢さんは。
それが、ティキの印象だった。
一度殺そうとした張本人だというのに、落ち着いている。
かくいう自分もやけに落ち着いているなと、ティキは一人自嘲した。
思い出すのは、ノアの家で見た自分の部屋の風景。
たしか、最後の記憶がそれだった。
方舟の崩壊、少年――アレン・ウォーカーとの戦い。
それらが全て終わり、家に戻ってしばらく落ち着いた時だったと、ティキはそう記憶している。
普通に寝て、起きたら名前の隣にいたのだ。
あの時は苛立ちが大きく、これからについてあまり深く考えていなかった。
しかし、名前の申し出は素直に有り難かった。
殺そうとした自分を、家に置いてくれると誰が思っただろうか。
追い出されてもなんとなく生きていけそうな気はしたが、なにせ今まで生きてきた世界とは違う。
まだ外の世界は見ていないが、恐らくは驚きと困惑ばかりなのだろうと、ティキはそんなことを思い再び溜め息をついた。
「…溜め息ばかりつかれていると、幸せが逃げてしまいますよ?」
「…っ、いつの間に…」
「ちょうど今さっきです。ティキさん、朝食ができたので、一緒に召し上がりませんか?」
ソファーの前にあるテーブルに、スクランブルエッグとウインナーが乗ったお皿とサラダが入ったお皿、クロワッサンがいくつか入れられたバスケットが置かれた。
香ばしい匂いにティキが少しばかり体を起こす。
それを見て、名前は微笑んだ。
「あまり材料がなかったもので…。洋食でよかったですか?」
「…あぁ。ありがとな」
ぽつりとそう言う彼に、名前はにこりと微笑んだ。
「…いただきます」
「はい、どうぞ」
体を起こしたティキは、とりあえずはとクロワッサンに手を伸ばした。
ほんのり甘い味が口内に広がり、少しホッとする。
そんな彼を見て、名前は準備していたのだろう、ティキの前のテーブルにコーヒーの入ったカップを置いた。
「お砂糖とミルクはいりますか?」
「…いや、ブラックでいい」
「そうですか。大人ですね…私、ミルクも砂糖もないと飲めません」
ふにゃりと笑う名前に、ティキは目を丸くさせた。
まったく警戒心のないそれに、自分も警戒するだけ無駄かと、内心そんなことを思ってコーヒーを一口飲む。
独特の苦さを感じつつ、それからは無言で朝食を食べ始めた。
「…ごちそうさま。うまかったよ」
「お粗末さまです。お口に合ったみたいでよかったです」
使っていたフォークを、空になった皿の上へと置く。
片付けでも手伝おうかとティキが立ち上がろうとすれば、それを彼女はやんわりと制した。
「大丈夫ですよ、私がやりますから」
「…でも、手伝った方が早いだろ?」
「二人分なので、すぐ終わりますよ」
にっこりとそう言われてしまえば、それ以上彼が言葉を返すことはできなかった。
名前は準備していたときと同様にてきぱき片付けを始め、十分もしないうちにテーブルとダイニングは綺麗な状態へと戻っていた。
手際の良さにまたもや目を丸くさせ、ティキはその後ろ姿を見つめていた。
幸いにも、彼女がその視線に気づくことはなかったが。
片付けが終わったらしい名前は、最後に手を洗うとティキの座るソファーのすぐ傍の床に座った。
床と言っても絨毯が敷いてあるが、ソファーは人が二人くらい座れるほど幅が空いている。
気を遣ったのだろうか、そんなことを考えて、ティキは無意識のうちに名前の肩に触れていた。
驚いて振り返る名前に、ティキは苦笑を漏らす。
「…空いてるんだし、座ったら? ここの家主はお嬢さんなんだし」
「あっ、いえ、私こっちの方が落ち着くので…」
一瞬困惑の表情が見えるも、それはすぐに消えてしまう。
微笑む名前に、ティキは少しばかり眉を寄せると名前の片腕を掴み、少しばかり力を入れて自分の方へと引っ張った。
想像以上に軽い名前の体はいとも簡単にティキの方へと引き寄せられて、ぽすりとその身をソファーへ沈める。
驚く彼女の声は無視して、ティキは名前を隣へと座らせた。
「っ、てぃ、ティキさん…」
「悪ぃな。でもさ、俺に気ぃ遣わなくてもいいから」
「で、も…」
居心地が悪そうに視線を彷徨わせる名前に、ティキは僅かに笑った。
そうして名前の髪を梳くようにして撫でてやれば、その行動が意外だったのか、名前が目を丸くさせてティキを見上げていた。
彼は彼で自分の行動の意図が掴めていないようではあったが、それでもどこか満足げであった。
名前はと言えば、ティキにされるがままに髪を弄ばれ、硬直している。
緊張でもしているのだろうかと、ティキが彼女を覗き込めば、その顔はほんのり赤くなっているような気がした。
「…照れてんの、お嬢さん?」
「…て、照れてません…でも…ち、近いです…」
「あー、なるほど。恥ずかしいのか」
「…お、男の人と、こんなに近くでお話する機会がなかった、ので…っ」
初な反応に、思わずティキは自分の口の端がつり上がるのを感じた。
なんとなくからかってみたい気もするが、あまり気を悪くさせてしまうのもなんだか申し訳ない。
そんなことを思っていれば、まだほんのり頬を染める彼女が、ティキの髪にそっと触れた。
まさかのその行動に、今度はティキが固まる。
「…どしたの、お嬢さん?」
「…その…綺麗な藍色だなぁ…って」
「そうか? 癖っ毛だから、そんなに気に入ってるわけでもないんだけど」
「いいと思いますよ。それに、私ストレートなので、こういうの憧れます…」
自分の髪は癖が強いので、なんて言って自分の髪を梳く名前に、ティキは目を瞬かせた。
今まで一度も自分の髪を綺麗と思ったこともなければ、良いと思ったこともない。
それを、名前は"綺麗"と言ってくれたのだ。
本当に不思議な奴だと、ティキはそんなことを思いながらもただただ名前の髪を撫でるのだった。