闇のような、漆黒の心。
きっかけは、いったいなんだったんだろう。
目を開けた視界の先を見て、彼はそんなことを思っていた。
ぼんやり開けた視界、見えたのは漆黒。
寝起きのぼけた頭を必死に働かせる。
手探りでいろいろやっていれば、手が何かに触れた。
「…ん…」
暖かいその何かは、人のようだった。
ぼんやりとしていた意識が徐々に覚醒し、彼はうすらと開けていた目を見開いた。
隣にいるのが、女性だと気づいたのだ。
横になっていた場所、ベッドに広がる漆黒の髪は、自分の見知ったものではないと彼は気づいた。
誰のものかわからないそれに、眉間に皺が寄る。
「…おい…」
「…っ…」
少し乱暴がちなその手付きに、女性が身じろぎする。
やがて、女性の瞳が開いていった。
彼女の視界に彼が映り、互いが互いの姿を確認した。
「…だ、れ…ですか…?」
寝起き独特の掠れた声に、彼が一瞬息を呑む。
しかし、それもほんの一瞬のことで、彼は睨むかのような視線を彼女へと向けた。
「…それは俺の台詞だ。ここは、どこだ?」
「…どこって…ここ、私の部屋…」
女性は意識が覚醒したのだろう、彼の姿を視界に捉えて細々と答えた。
そんな女性に、彼は益々眉間の皺を深くした。
恐らくは、自分の得たい言葉とは違ったのだろう。
彼は自分の髪をくしゃりと崩し、そして深く溜め息をついた。
「…ったく、なんでこんな面倒なことに…」
「あの…」
「…なんだよ?」
「私、名字名前と、言います…。その、貴方は…?」
恐る恐る告げる女性――名前に、彼はめんどくさそうにもう一度溜め息をつく。
ちらりと名前を見遣り、呟くように言った。
「…ティキだ」
「…ティキ、さん…」
「…んで、さっきの質問なんだけど…。お嬢さん、日本人だろ? ここ、日本なのか?」
彼――ティキは、そう言って真っ直ぐ名前を見つめた。
睨んでいるような、その真っ直ぐな瞳に名前は身を竦める。
躊躇いがちに、口を開いた。
「日本、ですよ。ここは私の家で、私の寝室です」
「…そ」
素っ気ない、かつ簡素な返事に名前はホッと息をついた。
少しだけ彼の放つピリピリとした空気がマシになったからである。
ティキは視線を名前から逸らすと、部屋をぐるりと見渡す。
物珍しいのか、その視線は先ほどのものとは違うと名前は感じていた。
とは言え、名前の部屋は簡素なもので、そこまで物珍しいと言えるものもないのだが。
「…なぁ、お嬢さん」
「…はい、なんでしょう?」
ぐるりと見渡していた視線が、止まる。
自分の方へと視線が向いたと気づいた名前が感じたのは、僅かな違和感。
彼の腕が、自分の方に伸びているということに気付いたと共に、その腕が自分の体を貫いているということに気がついたのだ。
「…え…」
「なーんかさ、イマイチ現状がよくわかんねぇんだけど。お嬢さん、俺になんかした?」
にこりと笑うティキの笑みが、どう考えても笑っているとは思えなかった。
笑みの奥に見える黒い何かが垣間見え、名前は息が詰まるような感じがした。
それと共に、胸が苦しくなり、名前は痛みに表情を歪めた。
「…っ…」
「俺さ、触れたいものだけを触れることができるんだわ。そんで今、俺はお嬢さんの心臓を掴んでる。俺が潰しちまう前に、答えてくんねぇかな?」
「わ、かんない、です…私、そんなの…」
名前はふるりと首を横に振った。
自分の身に起こっていることが怖いと思う以上に、きちんと答えなければという不思議な心理が働いていたからなのか。
感じたことのない心臓の圧迫感に言い知れぬ恐怖を感じるよりも先に、彼の手から伝わる焦りと苦しみに似た感情を感じたからなのかもしれない。
ただ真っ直ぐに、名前はティキを見つめていた。
果たしてどれくらい見つめていたのだろうか、やがて彼は諦めのような溜め息を漏らすと、静かに手を引いた。
「…お嬢さんが知らないっつーのは、よくわかった」
「そ…うですか…」
引かれた手に、名前はホッと息をついた。
恐る恐るティキを見るも、彼は名前を見ることもせずに虚空を見つめている。
どこか寂しげなその表情に、名前は無意識のうちにティキの右手を握っていた。
「…んだよ」
「え、えっと…その…居場所がないなら、私のお家にしばらく住みませんか…?」
ぽつりと呟かれたその言葉に、ティキの目がこれでもかというくらいに見開かれた。
驚いているのだろう、その感情を読み取った名前は、苦笑を浮かべながらも握った手にほんの少し力を入れた。
「正直、私もすごくびっくりしてますし、何が起こったのかいまいちわかっていないんですが…。貴方が私のところへ来たのも何かの縁ですし…」
「…あんなこと、したのにか?」
「…えぇ。それに、なんだかほっとけない感じがしたんです…なんて、変ですよね」
「…おかしなやつだな、お嬢さんは」
そう言って、彼は僅かに笑った。
それを見た名前はふわりと微笑むと、そっと手を離す。
ベッドから立ち上がれば、ぺこりと頭を下げた。
「…では、これからよろしくお願いしますね、ティキさん」
「…よろしく」
ぱさりと、漆黒を思わせる髪が揺れる。
彼はそれを純粋に綺麗だと思った。
ほんの少し前まで燻っていた黒い感情がなくなったことをたしかに感じ、ティキは深々と頭を下げる名前を見て、たしかに笑みを零したのだった。
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