貴女が笑ってくれるなら
なぜだろう、いつの間にか目で追うようになったのは。
なぜだろう、勝利以外に興味を抱くようになったのは。
勝利以外に要るものなどない、そんな僕がその気持ちを抱くようになったのは、ただの偶然か、それとも…―――。
「おはよう、赤司君」
「おはようございます、名字さん」
落ち着いたアルトの声。
心地いいその声は、真っ直ぐ僕の耳へと届いた。
タオルやスポーツドリンクの入ったボトルを持って歩く彼女―――名字さんは、僕の一つ上でこの洛山高校バスケ部の唯一のマネージャーである。
2年の先輩達に誘われマネージャーをやることになった(らしい)名字さんは、このバスケ部にとってなくてはならない存在になっていた。
他ならない、僕自身としても。
どうやら、中学までは京都のとある学校で女子バスケ部に入っていた彼女は、仕事を完璧にこなしていた。
それこそ、どこぞやのミーハーな女子生徒よりもバスケを理解していて、僕達自身をも理解してくれていた。
それでいて、恋愛事には興味がない、監督からしたら素晴らしい人材だという。
かくいう僕も、それには同意見だった。
この感情に、気がつくまでは。
「…えっと、じゃあこれはもういらないから…」
「手伝いますよ、名字さん」
「ありがとう、赤司君。でも、キャプテンの貴方にそんなことさせられないよ」
部活が終わり、名字さんは一人後片付けをしていた。
どうやら他の部員はほとんど帰ってしまったらしく、彼女以外の姿はない。
いや、更衣室にレギュラーのメンバーはいるが、おそらく彼らは片づけを手伝うことなどないだろう。
これはマネージャーか平部員がやるべき仕事なのだから。
もっともなことを言う名字さんは、それだけ言うとそのまま部庫の方へと行ってしまった。
まだ体育館には得点板やボールを入れた籠が残っている。
ましてや、まだ選手が使っていたゼッケンの洗濯は終わっていないはずだ。
「…もう少し、頼ってくれてもいいんじゃないか」
ぼそりと呟いた自分の言葉は、不思議と自分の中に違和感を残した。
前なら、帝光中の時だったら、そんなことは微塵も思わなかった。
桃井も名字さんのように万能であったが、今思えばあの時の方がいろいろと大変だっただろうに。
今、僕がそう思ったのは、はたしてなぜなのか。
「…あれ、まだ残ってたの、赤司君?」
そんなことを思っていれば、さっき持っていった物を片づけてきたらしい名字さんが、不思議そうな目で僕を見ていた。
どうやら僕は数分の間ボーっと立っていたらしい、そんなことにすら気付かないなんて。
本当に、今日の僕はどうかしている。
気づけば、笑いが込み上げてきて、僕は柄になく笑っていた。
「…なぜでしょうね。僕にもわかりません」
「そうなの? 今日は変ね、赤司君」
「ええ、僕もそう思います」
おかしそうに、名字さんはそう言って笑っていた。
あまり部活中には見ない、無邪気な笑顔がそこにあった。
まるでひまわりのような笑顔だと、そう純粋に思ったのである。
まだ見ていたい、そんなことを思ってみたが、いつの間にか名字さんは得点板を手に持ち片づけの続きを始めようとしていた。
僕がどんな気持ちで貴女の前にいるかなんて、考えてもいないんだろう。
そんなことを思っていれば、名字さんは片づけようとしていた手を止めて、僕の方へと振り返った。
「…きっと、疲れてるのよ。早く帰って今日はゆっくり休んだらいいんじゃないかな」
「…そうですね。そうしようと思います」
おどけたようにそう返せば、名字さんはふわりと笑っていて。
一瞬、ほんの一瞬どきりとした自分を不思議に思いながらも、僕はその場をあとにしたのだった。
それからというもの、僕は何かあるたびに彼女の笑顔を見ようと、名字さんに冗談めいた話をした。
あのときのように笑ってくれるときもあれば、また違う笑い方を見る時もあり。
自然と、自分でも気付かないうちに自分自身も笑うようになっていた。
僕が僕になってから、いらないと思っていたモノ(感情)が、たしかにそこにはあった。
僕だって一人の人間だし、全てが全て万能だというわけではない。
今まで忘れていた感情が呼び起こされたわけだが、不思議なくらいその感情を享受している自分がいた。
いや、本当はもっと早くから気付いていたのかもしれない。
「…あら、今日も居残り?」
「まあ…そんなところです」
部活が終わった後。
今日もまた名字さんの前に姿を現わせば、そんなことを言って彼女は笑った。
僕の感情に気づいているのかいないのか、僕にそんなことがわかるわけはないのだけれど。
「練習熱心なのね。感心する」
「名字さんだって、仕事に一生懸命じゃないですか」
「私は…もう、バスケはできないから」
だから代わりにマネージャーとして頑張るの、そう言って笑った名字さんだったが、それは初耳だった。
先輩達からはそんな話聞いていなかったし、なにより僕も率先して名字さんに聞こうとなんて思ってもみなかった。
ぽつりぽつりと、名字さんは語ってくれた。
元々、名字さんは京都でそれなりに知名度のある中学バスケ部に所属していた。
順調に試合を勝ち抜いていき、ついに全中予選決勝戦。
その決勝戦の第4クォーターで、それは起きたという。
相手から相手へのロングパス、それをジャンプしてパスカットした名字さんの膝の裏を、相手選手が故意的に蹴ってきた。
連日の試合で疲労が溜まっていた膝は、その衝撃で靭帯を損傷し、そのまま着地した名字さんの膝の靭帯は、そのまま断裂に至ってしまったらしい。
後十字靭帯と前十字靭帯の同時断裂。
着地と共に足に力が入らなくなってしまった名字さんは、そのまま急いで病院に運ばれた。
日常生活に支障が出るからと、それからしばらくして手術はしたものの、今もその後遺症が残っている。
だから、高校ではバスケをやらないのだと決めて、この洛山高校に入学したとのことだった。
結局、先輩達にバスケの世界に呼び戻されてしまったわけだが、彼女は後悔していないのだと、そう言って笑った。
「不思議よね、自分はもうバスケをしないって決めたのに、いつの間にかこうしてまたバスケに関わってる。まだ未練が捨てきれないのかな…もう、自分はコートに立てないのに」
自嘲とも取れるその笑みは、見ていて痛々しかった。
すっかり誰もいなくなった体育館、僕は少し離れたところに立っていた名字さんの方へと、一歩、また一歩と近づいた。
「いいんじゃないですか、それでも。貴女がここにいたいと思ってくれるなら、僕はそれで充分だと思います」
「…そう、かな」
「少なくとも、僕はそう思います。それに…」
小さいキュッという音と共に、僕は名字さんの前で足を止めた。
こんなに意図的に、名字さんに近づいたのは初めてかもしれない。
いつもなら頼りがいのある彼女だが、なぜだか小さく、それでいて愛らしく見えた。
「…僕は、貴女が笑ってくれるなら、僕が名字さんの代わりに勝ってきます。だから、僕達を…いや、僕を支えてください」
「赤司、くん…」
そっと、名字さんの頬に手を添えた。
泣いてはいない、けれど、名字さんは困ったように笑っていた。
そんな風に笑ってほしかったわけではないが、これからはそんな笑みを作らせないようにすればいい。
そのまま、頬に添えていた手で名字さんの腕を掴めば、そっと腕を引き寄せた。
勢いのまま、名字さんの体はぽすりと僕の腕の中へ。
気付きたくなかったんだけどな、なんて言葉が聞こえたが、それすらも聞こえないふりをして、ただただ僕は腕の中の存在に嬉しさと愛おしさを募らせるのだった。
貴女が笑ってくれるなら
(どんなことだってしよう)
(貴女の喜びは、僕の喜びとなるのだから)
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初赤司君夢でした。
高校生ってことで僕司くんにしてみましたが…どうにも似非感が酷い気がしてなりません;
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